ペドロ
まめたろう(僕)
※この記事は、スピリチュアルにおけるハートをテーマにハートが開いた状態で生きることに触れつつ、ぼくらの心にフォーカスした内容になります。みなさんは、ハート開いていると感じていますか?それとも閉じていると実感していますか?
ぼくらって目に見えない心の存在はなんとなく在るって感じているけど、いきなりスピリチュアルのハートになると開運とか、キラキラに結び付けそうですが、ぼくはハートが開くってわりと本来の自分の声を聞くようなイメージにはなってきます。
そして、これはぼくだけの感覚かもしれませんが、24時間365日ハートが開きっぱなし。なんて人はたぶんこの地球上に肉体としては存在しなくなります。たぶんね(笑)
スピリチュアルにおけるハートとは?
ハートで生きる
どうもペドロです。
スピリチュアルにおけるハートってかなりふわっと愛…なのか?っていう結構曖昧なものだったので、今回僕なりに再定義を試みてみようかなと思います。
ハート単体ではあまり聞かない表現なので「ハートで生きる」にフォーカスしてみましょう。
結論から言ってしまうと、ハートで生きるとは自分を信頼して生きるってことじゃないでしょうか。どんな時でも内にある、あるいは生じる何か。理屈抜きに魅力を感じる、気になるって場面あると思います。例えそれが頭では正反対に考えていてもです。
当然社会的な生活を送っている生き物であるところの僕達はしがらみ抜きで選択する事は不可能に思えますよね。社会的な折り合いをつけるうちに現代人ってハートの機能低下を起こしているかもしれませんね。
引き算的な生き方をせざるを得ない僕達は100%自分を信じるってほぼほぼ無理で、マインドとハートの往復を余儀無くされます。これはあくまで抑圧されてる側から見た話なので、好意的に見ればマインドとハートを上手く使い分けているとも言えます。
ハートの機能はマインドには無い価値基準を持っているので魅力を感じるっていうポジティブな面があるならなんか嫌だなって感じるネガティブな面のセンサーも持ち合わせています。大事なのはこのハートを活性化させることなんだと思います。
ハートの活性化
僕の場合ネガティブの方からハートに従っていきました。嫌なとこに行かないとか、やらない等。ちょっとずつでしたけどね。あくまでできる範囲で。良くも悪くもこの嫌だなって感覚は意外とスルーできてしまうところがあるんですね。
そうしていくうちにポジティブの方も活性化してきて好きなことが何なのか分かり始めました。過去にこういうことでワクワクしてたな~っていうフラッシュバックもどきが起きたりもしましたね。最近になってハート死に気味だったんだなって気付きました(笑)
ハートを擬人化するわけではないのですが、無視し続けるとハートもそっぽ向くのかもなぁってしみじみ感じました。
で、だんだんハートを尊重していくとそのセンサーがイキイキしてくると。ただこのハートに生きるという軌道に乗ってくると嫌なことをするのがホント嫌になります(笑)
一目惚れって現象あるじゃないですか。あれって接触事故みたいなもんでマインドからハートに価値基準が落ちた(fall in heart?)瞬間なのかなって思いますね。
普段からハートで生きている人は直感的にこの人とは長い付き合いになりそう、とかなんか好きでとどまるところを、マインドからハートの落差、そのギャップで混乱に陥り特殊な感覚に酔うみたいな。
「恋は盲目」は主にネガティブよりの表現ですけど、これってマインド視点の表現だと思うんですよね。さっきも言ったようにハートにもちゃんと価値基準があるので。でも大抵の人はハートとマインドを行き来しています。
つまりハート基準をマインドを通して見たらそらえらいことになりますよね。そしてこれが恋は盲目に一定の説得力がある原因なんでしょう。
自分を信頼する生き方にシフトしようとする際の最初で最後の壁が「常識」です。相性悪いですからねハートと常識。ぶつかるのではなく、常識の上を悠々と歩くイメージです。
ある種のアナーキストになる覚悟が問われるところではあります。この生き方をしても幸福には直結していないのも考慮するべきですね。むしろ初めのうちは不和を生み出し孤立するかもしれません。それでもそばにいてくれる人を大切にしましょう(笑)
もちろん良いこともあって、選択後の後味が全然違いますね。なんというか言い訳が発生しません。僕はそれを選んだ、それ以下でもそれ以上でもないみたいな。マインドを通していると悪い意味で何かを守っているので本意じゃなくて消化不良になりがちです。
誰かにあって誰かに無いって代物じゃなくて、僕は間違いないコンパスだと思っています。
ここまでありがとうございました。
ペドロ。
ハートの活性化とマインドの活用方法
まめたろう(僕)
ここからは、ぼく、まめたろうがハート&マインドについて少し触れながら、両方上手に使ってみるとけっこう面白いかも説をやんわり共有していきます。
ハートチャクラとハート
スピリチュアルな文脈でハートという言葉は、ぼくらの心臓付近にあるとイメージされるハートチャクラ(第四チャクラ)、そして、ハートを開く、活性化させるなんて形で登場します。
ぼくもヒーリングセッションでよくこの「ハート」をみます。ハートをみるというのは、チャクラの状態ならけっこうわかりやすくて、開いたり活性化している人は光っていたり、エネルギー的にブレがない状態です。
逆に閉じている人、ハートチャクラに元気がない人は、ブレていたり、光が弱かったりする状態です。チャクラの状態でないハートって言語化すると魂とかエネルギー体に酷似するイメージをもっていると思うんですが、やっぱりハートなんですよね(笑)
ペドロさんが、ハートで生きる=自分を信頼して生きるって表現してくれましたが、まさにこの通りで、自分を信頼して生きている人は、エネルギー的にみても、ハートがビンビンになっています。
まずは、この「信頼」についてみていきましょう。
ハートで生きるという意味
自分を信頼して生きるというのは、自分に自信をもって、私ってすごいでしょ?キラキラなんだよ?こんなすごいことしているんだよ?ねえ、誰か私をみて?というある種の物足りなさとか、ギラギラ感を滾らせるわけではないとぼくは感じています。
まあ、もちろんそういうことで、自分を信頼できるのであればたくさん仮面をつけてもいいんですけどね(笑)
ただ、ぼくの思うこの自分を信頼するとは、ペドロさんでいうところの「常識の上を悠々と歩く」イメージと重なります。ある意味では、他人を気にしないことに通じるだろうし、ある意味では、常識にとらわれないみたいに感じる部分もあるんですが、
そういうレベルではなく、自分で道を敷き並べて、やんわりゆったりした衣装で着実に歩いていく感じですかね。途中でしがないヤジが飛んできたり、落とし穴もたくさんあるんですけど、それは結局自分で決めた、作った道なので、一歩一歩着実に歩を進めている感じです。
まあ、たまに遠回りしたり、後ずさりすることも多々あるとは思いますよ。人間なので。
そして、やっぱり自分を信頼していない人は、ぼくの経験上、他人もまったく信頼していない状態と完璧に寸分違わずイコールにはなってきます。鏡みたいなものですね。
マインドの効用
ハートに従って、ハートを活性化させて生きているとぼくはとても楽になれるとは思っているんですが、やっぱり人間なので、自分の外部から色々なやつが侵入してくると思います。
それがいわゆる常識や規範だったり、他人の感情だったり、自分が今まで培ってきた経験だったり。
こんな時に、役立つのがぼくはマインドだとは思います。イメージしやすいことばだと、思考と直感ですかね。思考がマインドで直感がハートです。
大枠はハートに任せてれば、物事の原因や結果に至るまで、すべて自分に持ってくることができるので、非常にコスパがいいとは思うのですが、いきなりハート暴走族みたいな状態になると、あらゆるギャップに耐えられない自分が出てくるかもしれません。
そもそもが「強い」人であれば、クリシュナムルティの必殺「気にしない」攻撃で乗り切れることがほとんどですが、やっぱりぼくらはカリスマ哲人ではないので、たまにはマインドを使って、自分で自分を防御してあげるといいかもしれません。
ハートで生きるって、別に無理矢理頑張って自分を信頼してあげるというよりは、結果的に自分を信頼した方が楽だったかも。みたいなのんびりしたイメージですもんね。
どの場面で、どのシチュエーション、どちらをバランスよく使って、より楽しむかがぼくはけっこうなキーポイントなのかなという感覚があります。
みなさんもたまには、自分のハート調整してあげるとアナーキストな自分に出会えるかもしれませんね。
いつもありがとうございます。