まめたろう(僕)
たっかぶり(妻)
※この記事は、人生において「にげる」という選択をとってもいいんじゃないかな。ということを素直な文章でダイレクトに表現してみる内容になります。ドラクエってコマンドに「にげる」ってやつがあるからこそ名作だとぼくは感じています。
日本を代表するゲームと言っても過言ではない「ドラクエ」、プレイしたことある人ならわかるかもしれませんが、「たたかう」の他に「にげる」っていう選択肢があります。1980-90年くらいに第一作目が出て、時代背景とか社会的なことを鑑みると、
このゲームの秀逸さは、やっぱり「にげる」というコマンドを選べるってところですよね。(ボスからは逃げられないけど)
今でさえ、色々な場面に多様性が出てきたものの、なんとなく「たたかう」ことが美徳という風潮は抜けてないような気がします。
今回は逃げるって選択肢を自分の意志で取ると楽かもっていうことについてぼくの考えを共有していきます。まあ、そんなこと言われなくてもわかっとるわ。と突っ込まれそうですけどね笑
「たたかう」美徳と「にげる」は恥という日本社会の風潮
日本といえど、かなり広いお国ですので、一概には言えませんが、「戦う」=美徳、「逃げる」=恥という共通概念を強く押し出すときが多いです。頑張ることが正義、途中で逃げ出すのはダメ。やり遂げなさいとか、試練とかね。
こういう風潮って、ぼくはやっぱり日本っぽいアジアっぽいところからきていて、もっとさかのぼると宗教的なところに行きつくような気がしています。
学校という空間
ぼくは、海外の教育ってそれほど受けたことないのでわかりませんが、勤勉さが取り柄の日本って学校で良くも悪くもつくられるような気がしています。
何事にも一長一短はあるのは、当然のことですが、学校から社会に出るまで、光速を超えるかの如くまっしぐらで社会に溶け込まなけらばいけないような暗黙の風潮があるような気がします。
そこから外れれば、社会不適合者とか、ダメ人間っぽいレッテルは貼ってくれるし、戦うこと、頑張ることはいいで。っておしえてはくれるんですが、逃げてもいいで。とは言われません。笑
逃げても良いって言われる時は、余分なトラブルを回避するための「我慢」とか、ことを荒立てないようにする消極的回避とかになります。ぼくの勝手なイメージですけどね。
社会という空間
自分がいまどのコミュニティに属していて、もっといえばどこで誰と時間を過ごすかに大いに関係してくるとぼくは感じていますが、学校や小さい時つくった価値観は「社会」という空間に行ってもほぼ変わらない気がします。
働くことが美徳、長くしんどくツライことをするひとはかっこいい。これに準じた言い回しはけっこう出てきそうです。みんなハードなスポ根魂好きですし、そういうストーリーに「感動」さえしますからね。
主に日本の教育や社会、家族システムに関しては、今日日、小学生でも知っていそうな「いろんな人がいる。」って大前提を完全に無視することが多いです。だから「逃げちゃダメ」ってなるんだとぼくはなんとくなく感じています。
人間も人生も色々
ぼくは、このブログでも何度かお伝えしていますが、こうでなければいけない。こうしなくちゃダメ。ということは微塵もないと思っています。
そんな中で、なぜ戦うというコマンドは神格化されていて、逃げるというコマンドは消極的意味合いが強いのかは結構謎です。マシーンでもつくりたいのかなと思っちゃうときもあるとかないとかそういう噂ですね笑
人生でツライ経験をしたひとのなかで、もしめっちゃ影響力の強い人が、「え?それにげるボタン押すとこだよ。」って言ってくれたら救われる場面もけっこう多いのではないでしょうか。
能動的「にげる」は全力行使した方がいいかも
ある程度の文脈で「人間や人生はいろいろやで。」ということを大半のひとが理解しているように感じています。
ただ、在る場面になると、「みんなこうだから。」とか「ふつうはこうだから。」「一般的にはあれだから。」という物差しをリミッター解除してぶつけてきませんかね。
例えば、学校に行かないひとはダメ。○○歳にもなって○○していないなんてクズだ。とか。大人な方々が得意なこうすべき論とか一般常識論ですね。
それが心地いい人もたくさんいるとは思いますが、だからといって、それが、心地よくない人を批判したり押さえつけて良い理由にはなってこないような気がぼくはしています。ぼくにはその感覚は少なくとも理解はできません。
逃げるっていいで。
嫌なモノから逃げる。嫌いな出来事から逃げる。人でもモノでも仕事でも、ぼくはとても逃げることが多いです。言い訳もするし、たぶん嘘もつきます。だって、嫌ですからね。
逃げなければいけない。なんてことは一つもないんですけど、それとおんなじたたかわなければいけない。ってことは一つもないように感じています。
にげるを使うとき、全力で能動的にげるであれば、ぼくはそのボタンやコマンド連打した方がめっちゃ良いと思いますよ。ドラクエの世界では、ボスは絶対逃げれなかったりしますけど、ぼくらが生きている世界は逃げられないってほぼないような気がします。
逃げるの失敗したわ。とかはありそうですけどね苦笑
向き合わない、逃げることで覚醒しちゃうかも
せっかくスピリチュアルブログを書いていますので、「覚醒」ってことにも触れていきます。覚醒とは、ぼくは本来の自分に気が付くことだと思っています。本来自分のやりたいように生きる。ってイメージでほぼ変わりません。
20世紀くらいまでは、覚醒するには瞑想とか厳しい修行してごにょごにょしなければ覚醒できないっていう意見が主流だったと思うんですが、けっこう変わってきていませんかね?
仮に覚醒とか目覚めのボタンがあるとすれば、ぼくは逃げることでそのボタンが目の前に現れることもあると思います。
例えば、ずーーっと親に悩んできた人が物理的にも心理的にもみえない何かで逃げる。とか、苦しくて自分を押し込めなければいけない仕事から逃げることで、本来やりたかった選択がちょっとみえるとか。
なんか心がネガティブな意味でホワホワしているひとがニゲルことで、フワフワしている部分に触れるとか。いろいろ表現はあると感じているんですけどね。
先日、友人とこのドラクエの「にげる」についてわりと真剣にロックグラス片手に語っていたところ、その友人が「本当にやりたいことだったら少なくとも心の面ではしんどくならないことが多いわ。」
って本当にシンプルなことを言葉にしてくれていたんですが、ぼくもこれにはかなりの文脈で同意です。だからこその「にげる」という勇気のいる選択でぼくはアウェイクニングっぽくなるひともいるなあ。しみじみ感じた夜でした。
スピリチュアルな話になると、事柄がいきなり大げさになりがちですが、ぼくはもっと小さいところから始めても良いと思います。本当にお風呂に入りたくないんだったら、お風呂に入ることから逃げるとか笑
逃げまくっていたらそれがクセになるというコスパの悪いぼくらですが、もしリアルに逃げたければガンガン逃げて、レベル1でも魔王も倒さず、すごく怠惰な勇者がこの世界に1人くらいはいても面白いとぼくは感じています。
まとめ:逃げるも戦うも常にコマンドは自分でしてみるクセをつけるといいかも
人生いきていれば色々な選択や、チグハグな社会に迷うことがたくさんあると思います。
あらゆる側面からいろいろなことを考えてみる。っていうシンプルかつ素直なことができにくい世の中でもありますが、自分がドラクエの主人公だったら、どんな選択をするかなあ。と立ち止まってみるのはかなりアリかもしれません。
ドラクエのいいところは、そのコマンドを自分で押すってところですよね。
自分の人生に置き換えてどれだけのことを(とりあえず、周りや世間は一旦置いておいて)自分で決めているのかって考えるとどうでしょう?たたかいたいならたたかってもいいし、にげたいならにげてもいいって思えることって案外多いようにぼくは感じています。
ドラクエだとゲームボーイカラーのテリーのワンダーランドにめちゃくちゃハマったぼくですが、いまでさえ、モンスター仲間にしようとか思いませんが、たまにはパーティー組んで逃げるのも面白いなあとか妄想しています笑
ぼくらには魔王を倒さなければいけないっていう使命はないので、けっこう逃げてもいいかもね。というお話でした。みなさんは逃げちゃダメって思うときありますか?逃げてもいいよ。って周りに言っているでしょうか?
いつも読んでくださってありがとうございます。
はじめまして!
自分で選ぶ選択肢には、「戦う」以外に「逃げ」のコマンドもあるよと
教えていただいて、心が少し楽になりました。
ついさっき、とある漫画エッセイを見てて、(例えば仕事の嫌な上司とか)の試練から、逃げるのはダメ。
乗り越えないとまた同じことの繰り返しだよっていう内容があって、
間違いでもないんだろうけど、息苦しくなる自分がいました。
今まで、人生って何が正しいのかな?って人の言葉とかに答えを求めてばかりいました。
今も、前ほどじゃなくても、若干そういうところはあるんですけど(^_^;)
息苦しいなら息苦しいんだなぁ、逃げたいなら逃げてもいいか、と自分の感覚を大切にしていきたいと思います。
いつも、記事を読んで
色々自分の気持ちに気づかせてもらってます!
ありがとうございます!
うめさん、コメントありがとうございます!
ぼくら試練とか逃げちゃダメってコンセプト好きですからねえ。
ぜひぜひ自分の気持ちを大事にしてあげてください^^