今日のテーマは「許し×誤解」です
あいたたたたなやつです
※この記事は、「許すこと」において一般的に誤解されがちだと感じることについてまとめた内容になります。
生きていれば、誰かに対して、あるいは過去のある出来事や自分に対して、どうしても許せんぞ!とユルセナイマンが顔を出すことは一度はあると思います。人間的な感情の1つですからね。
許すことは、相手やその過去を肯定することだ!とよく思われがちですが、実際の癒しのプロセスではそれが必須事項にあがるとぼくは思いません。
また、スピリチュアル界隈では、許せない自分を許すということがよくうたわれますが、こちらも正直そんなにかしこまらなくてもいいような感覚もぼくにはあります。
そんな、「許すこと」ですが、今回はありがちな誤解を良い感じにまとめていこうと思います。
なかなか許しがスムーズにできないすべての人のヒントになれば嬉しいです。
許すにはいろいろな意味が含まれるのでそこを一旦整理していきましょう。
許すの意味
まず、辞書的な意味としての許すにはけっこういろんなものがあります。例えばですが、
- 不都合なことがないとして、そうすることを認める。希望や要求などを聞き入れる。
- 過失や失敗などを責めないでおく。とがめないことにする。
- 義務や負担などを引き受けなくて済むようにする。免除する。
- 相手がしたいようにさせる。まかせる。
- そうするだけの自由を認める。ある物事を可能にする。
- 警戒や緊張状態などをゆるめる。うちとける。
- 高い評価を与える。世間が認める。
- 引き張ったものをゆるめる。
- 捕らえたものを逃がす。
基本的に、過去とか相手、みたいな文脈で使われることがこの界隈だと多いので②の意味になるのかなと思います。
スピリチュアルにおける「許し」
スピリチュアルにおける許しはもちろん、上のような辞書的な意味合いも含むのですが、もっと広い感じをぼくはイメージしています。
例えば、エイブラハムは、「許すとは、抵抗していたエネルギーを元の流れに戻すこと。」と言ったり、
エックハルト・トールは、「許しとは、 不満(悲しみ)や怒り、他のネガティブな感情に居座り続けないこと 」と言っています。
つまり、肉体レベルの自分が(誰かや自分や状況に)傷つけられたという感情や判断をほどき、癒していくプロセスやツールの1つということだとぼくは勝手に思っています。
自分の感情のヒーリングであり、思い込みを越えるきっかけを与えるものと言ってもいいのかなと思います。
許しを少し限定的にみてしまうと、以下のようなことが誤解されていそうな事柄にあがります。
- わるい方が先に謝るべきだ
- 許しとは、相手を認め肯定することだ
- 相手と和解しなければ許したことにはならない
- 許した瞬間にすべてが元通りになるプロセスである
- 過去を水に流さなくてはいけない
ひとつずつゆっくりみていきましょう。
①悪い方が先に謝るべきだよ!
何事においても、「ごめん」の一言があると驚くほど関係性がスムーズにいくことはだれしも経験しているはずです。
例えば、あなたが偏頭痛で悩んでいるとしましょう。誰かの許可がおりるまで、頭痛薬を飲むのをためらうでしょうか?それとも必要なときに自分の意志で飲んじゃいますか?
このケースであれば、後者を選ぶのは当然だとぼくは思います。辛かったら自分の意志で薬をのみますよね。
悪い方が謝るべきだ!というのは、人間関係で、例えば、自分には咎がなく、相手が謝らないと納得いかない!という状態は偏頭痛なのに、薬を与えてくれない相手がいけないと言っているようなものです。
相手の許可を待っているんですよ。
もちろん、相手が相手の悪いところを自ら認めないと許せないというマインドはあって当然ですが、許しのエッセンスとは究極的には自分の感情を自分で癒すという意思のことだと思います。
②相手の考えや行いをも肯定しないと許しにはならない
自分を傷つけた相手をこらしめるために、相手を許さないマインドが強く顔を出すときがあります。しかし、怒りや恨みとは、相手を倒そうとして、自らすすんで毒を飲み続けているような状態とほぼイコールとも言えます。
つまり、怒りや恨みという感情に留まれば留まるほど、実は損をするのは他の誰でもない自分です。
許しとは、相手の言動や人格をまるまる容認して、肯定することとはまったく関係がありません。自分の怒りの感情にさよならをすると決意することです。
めちゃくちゃ苦しいですけどね。それでも相手ありきの許しを模索していて、その感情のわだかまりを相手にほどいてもらうことを期待できないのであれば(相手が自分に対して態度が変わらないなら)、
いつまでもその状況で地団太を踏むことは少しもったいない気がします。結局そこに執着すればするほど、自分の傷付いたマインドが涙を流し続けることになるからです。
ちなみに、ブッダさんは以下のような名言を残しているようですよ。
怒りに執着するのは、誰かに投げるために焼けた石炭を握りしめ続けるようなものです。火傷をするのは、あなた自身です。
と。(頭ではわかってはいるけど、ってやつですね。苦笑)
③許しとは相手と和解することである
「許し」が流れていくプロセスにおいて、ぼくらが理解しておきたいのは、過去を100%完全に肯定する必要はないということです。(厳密にいうならそれが不可能なこともたくさんあります。)
許したい対象や相手が和解ムードにならない、あるいは連絡がもう取れない、さらには、亡くなってしまったなんてケースがあります。
ウィリアムカントリーマンという牧師さんの著書によると、
「許しとは、過去を完全に正しく戻すことは究極的には不可能だという認識のことである。」と言います。
つまり、彼のこの意見にイエスと言えば、(相手のことが気にならなくなるとか、相手に対して穏やかでいられるとか)などの許しにおける勝手に作られた前提条件を取っ払うことができ、自分自身の解放につながるとぼくは思います。
もう少し優しい言葉を使っていくのであれば、許せば全てに感謝できて、穏やかになるなんて必要はなく(そもそもそんなのは無理なんだから)、ちょっとくらい心がザワザワしながら前に進んでいこう。ということです。
自分の感情を自分で癒すぞ。と胸張って言っておけばいいんですよ。
④許しとは許した瞬間にすべてが終わる
許せないできごとで傷ついたとき、1度ですべてを許しきれるひとは最早人間ではないと僕は思います。そんな魔法の呪文はありませんね。
「相手も自分も許すぞ!」と決めたらそこはスタートであり、行ったり来たりしてもいいんですよ。
長い許しの道のりの中で自分の傷が癒えたらまた別の傷が顔を出すなんてことはよくあります。でも、前へ進むぞ!と決めたのであれば、その決意と意図をつくった自分を十二分に褒め称えてあげることをおすすめしておきます。
⑤許しとは、過去を忘れることである
許しとは、過去を忘れることとイコールではありません。過去を忘れることって別に美徳じゃないですしね。
許しとは、その記憶(出来事や経験)に基づいているネガティブなイメージを手放していくことです。
個人的に思うのは、スピリチュアル界隈でいうと、許せば過去がポジティブに変わるという誤解もここにある気がします。
例えば、自分のお家に泥棒が入って、大切なものが盗まれたとしましょう。おそらくほとんどの人が泥棒め!と許せない感情を抱きます。
よく言われる許しにおいては、その泥棒が〇〇なことに気が付かせてくれた。泥棒に大切なものは盗まれたけど、命は無事だった。と無理にポジティブなイメージを隙間にいれようという教えです。
ぼくはこれが有効になる人もいると思いますが、結局許すことにおいて条件を付けている点においては、結局おんなじです。
そうではなくて、泥棒が盗みに入った事実は変わらないし、泥棒めくそ!!と思った自分もいるんだけど、それでもいいんだよ。というのが「許し」だと個人的には思います。
何がいいのかはわからないけれど、少なくとも相手が悪いとか自分が悪いとかそういう領域からはさよならできます。
今回は許しというのがどういうものか、また、許しにおいてどういう誤解が生まれているかを参考記事に僕の考えを追加しながら書いてみました。
基本的に、何か許せないトゲみたいなものがある場合、誰かのことだったり、相手にされたことが許せないことがほとんどです。
ただ、その先をみてみると、どうしてそこに腹が立つのか、ネガティブな感情を抱く自分がいるのかという問題にぶち当たると思います。
なので、究極的には相手が許せないということはなく、過去の自分だったり、自分の感情や感覚、それこそ潜在意識と向き合い癒すのがこの許しです。
その裏に隠れているのが、不安感、無力感、恐怖心、執着などなど多岐にわたります。焼けた石炭を握り続ける自分をそろそろお休みさせてあげてもいいのです。
人生は自分を癒す道具であふれているのかもしれません。
みなさんはどう感じますか?