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水子供養は必要なの?水子は親を祟ることは100%ないかもしれない件

今回のテーマは「水子」です。

まめたろう(僕)

たっかぶり(妻)

日本神話の神・水蛭子より転じたものらしいよ。

※この記事は、「水子」をテーマに、ぼくなりの考えを共有して、供養や水子の祟りに関するお話をしていきます。基本的に、流産だろうと中絶だろうとぼくは親を祟る?呪う?子を今までみたことがないです。

水子は中絶や流産で亡くした子を指す言葉です。そういった経験がない方も、ある方も、今回は水子をテーマにしつつ、愛のお話になっていく予感がしていますので、気になる方はどうぞ読んでみてください

ぼくらが生まれるこの仕組み的なやつは、ぼくのイメージだと、すべてアウェイクニングに通じています。それは色んな自分に巡り合うための演習に重ねた実演ですね。とても面白い世界です。

水子の供養はしたいのであればしてもいいかなと個人的には思いますよ。あとスピリチュアルな話なので信じても信じなくてもどっちでもいいとは思います。真理なんてものは自分にしか存在していないので。

水子とは?

水子とは、お母さんのお腹の中で亡くなる子のことで、水子霊という言葉はその子の魂を指すことに主に使われている印象です。

そして、ぼくらの世界だと、「流産」と「人工中絶」によって、赤ちゃんが命を落としますね。そしてそれらを総称して「水子」と呼んでいます。

この記事を読んでくださっている人の中には、実際に流産の経験がある方、そして、様々な理由で人工中絶という選択をした方、色々いると感じています。ぼくのイメージだと、流産だろうと人工中絶だろうと、いわゆる赤ちゃんを殺めるような「罪悪感」の類だけで、

その出来事を有耶無耶させてしまっているのは少し視野が狭いのかもしれません。

もちろん、その出来事で苦しい経験をした、自分を責めている。行き場のない感情に追いやられる色々あるとは思いますが、最終的にどこに落とし込むかはよーーく感じ取ってみることをおすすめします。

流産と人工中絶の水子で、「学び」の方向性がじゃっかん異なります。そしてそれらは、あなたを苦しめるものではないし、因果応報でも、カルマでもなんでもないことは心のポケットに入れておいてください。

流産と人工中絶における水子の意味や学びの違いとは?

ぼくだけの感覚かもしれませんが、流産と人工中絶の水子にはぼくらが愛を学ぶうえで少しだけ異なったニュアンスがあります。そしてこれからお伝えすることは、スピリチュアルなことなので毛嫌いする人もいると思います。

なので、自分が納得できるところだけ拾って感じてみてください。

流産や死産の水子とスピリチュアルな学び

自然流産でも死産でもなぜそうなったかに関しては理由も人それぞれ異なりますが、ぼくの知る限りで共有しておきます。これは「お母さんへ悲しみを知って欲しいから」という単純な話ではもちろんありません

①子どもが決めてきているパターン

赤ちゃんは親を選んで生まれてくる的な話を耳にしたことがあるでしょうか。ぼくらが地球に生まれてくる理由は本当にそれぞれですが、お腹の中で命を終えることを決めてくる赤ちゃんもいます

流産や死産は、その一部分だけを切り取れば、非常にショッキングな出来事かもしれません。特に周りや家族からの冷たい言葉で傷付くなんてこともありますよね。それらすべてをよーーーく感じ取ることで、お母さんは「深い愛」を学ぶことになると思います。

まあ、深い愛を学ぶとか達観されたこと言われても、感情の処理はできないこともあるかもしれませんが、どのようなプロセスを辿るにせよ、生命とは?命とは?みたいな答えの出ない命題からぼくらは愛にフォーカスできることもあるでしょう。

ちなみに、スピリチュアル的に言われているのは、お腹の中で命を終えることを決めている赤ちゃんは魂レベルがかなり高いようですよ。何度も生まれ変わっています。

②人生を密に凝縮させるお母さん

赤ちゃん目線では、予め決めてくると言いましたが、お母さん目線では、人生の体験、経験を凝縮するため、10人いたら10人が味合わないような「流産」という選択をしてくる人もいるようです。

ここで選択というと、宿命や運命を想起させそうですが、ぼくの勝手なイメージだと、宿命も運命もコロコロ変わるので、必ずしもそこに落とし込む必要はないと感じています。

赤ちゃん側からの供給(需要)とお母さん側からの需要(供給)の一致がタイミングで起きたと捉えてもいいと思います。

③お母さんの身体を傷つけたくない赤ちゃん

母体として選んだお母さんの身体を配慮して、その赤ちゃんが産まれてくることを選択しない場合もあります。負担をかけ過ぎたらやばいから出産としてではなく、養子や別の形でそのお母さんやお父さんにしようかな?というパターンですね。

ぼくらは血やDNAの根源を肉体に求めがちですが、突き詰めると意識体や魂ですので、肉体はあくまで借りものです。そういう観点からみれば、どのような形であれ、母親、父親の元にいたいなあ。と感じる赤ちゃんは流産してもなお、

代理出産などの形で誕生してくるケースもありますよ。本当に天才ですね。

流産や死産の水子まとめ

  • 赤ちゃんが決めてきている
  • お母さん側の学び
  • その他の場合

もちろん、この他にも原因や理由は本当に様々です。それは目に見える医学的な観点からも、目にはうつりにくいスピリチュアル的な観点からも一緒ですが、終局的には「愛や生命」に思いを馳せることに繋がるとぼくは感じています。

そして、流産で言えば、失うことで気付ける、失くすことの愛をテーマにしていることが多いです。

人工中絶の水子とスピリチュアルな学び

中絶は殺人と一緒だ。人工中絶はカルマや因果を背負うことになる。というスピリチュアル的な考えをする人もいますが、ぼくは、それは少し一義的すぎると感じています

確かに、選んで意図的に妊娠を終わらせることにはなるのですが、こちらもふかーーーい視点が大切です。もちろん罪意識や罪悪感をもつこともそうですが、それだけではないです。そして祟りは起きませんし、罪も負いません。死における概念が地球よりすぎますよね

これは、望まない妊娠だろうと、望んだ妊娠の末の決断だろうと一緒です。

お母さんが選択することで愛や手放しを学ぶ

中絶に関していえば、ほぼ100%お母さん側の「学び」、「レッスン」に繋がります。中絶は、命の選択をします。つまり、産むか産まないかですね。実際に母親の身体に宿っている肉体なので、かなり強烈でセンシティブに愛を感じることになるでしょう。

中絶を決心するに至るまでには、本当に色々なことに思いめぐらすと思います。勇気のいる決断だったり、産みたいけど産まない選択をするだったり、自分とは何か?生命とは、命とは?愛とは?手放すとは?などなど、

かなりふかーーーい視点でお母さんが感情や感覚を爆発させることになるかもしれません。

そして、ぼくのイメージだと、人工中絶するという選択をすることがわかってそのお母さんを選んでくる赤ちゃんの方が多いですね。だから、罪悪感だけで終わらせたり、罪だけで片づけてしまったりすることは、赤ちゃんの意図ではないとぼくは思いますよ。

水子の祟りや霊障は100%ない?死における概念の違い

水子の祟りという考えそのものは、江戸時代の浄土宗に遡るらしいのですが、広まったのは、1970年代の阿含宗という宗教らしいです。まあ、ぶっちゃけ、窮屈に捉えてしまえば「水子商法」ですかね。苦笑

水子の祟りという概念はそもそも日本以外のところには存在してなさそうですもんね。ぼくが無知なだけかもしれませんが。

スピリチュアル的観点で言えば、水子が祟って霊障が起きたりとかはまずないです。ぼくもヒーリングで色々な方をみさせてもらいましたが、あり得ないというほどないです。

これは、死における考えの違いから主に来ているように感じています。ぼくらの多くは死をめっちゃやべえ一大イベントとして捉えがちですが、そうではないです。死を悲しむなとか、悲劇的な死はないとかそういうことではもちろんありません。

肉体として受け皿を確保する前に、魂としての存在がぼくらです。肉体は単なる衣装に過ぎません。そういう観点に立つと、例えば、水子が中絶で殺されるとか宗教観に近いような重い感覚から解放されてきます。

流産の水子は祟らないけど、中絶は殺人要素が入るから「罪」で水子に祟られるで!なんて考えはひじょーーーに狭い視野です。ぼくは少し恐怖すら覚えます。

そもそも、宇宙はなんでもアリなので、殺すことが悪という独特の概念をもっていて、その共通ルールが適用されるのはこの地球だけですね。

少しいじわるな突っ込みをしますが、もし中絶でそれが仮に殺める行為で祟りに繋がるのであれば、動物も魚も植物も殺めて食べまくっているぼくらは人間よりピュアな彼らに祟られまくらなければおかしくないですかね?

地球上の生物で、同族も他種族も無双状態でやりまくってますからね。無差別という言葉も霞みます。言いすぎですけどね(笑)

命の重さは、もちろん人それぞれ異なると思いますが、究極的な無条件の愛的なところ、ワンネス的な視点はそういう価値判断基準が消えますよね。まあ、当然好みにはなりますが

水子は祟りませんが、その代わりにぼくらに愛とか手放しを教えてくれるもっとふかーーーい存在です。死における概念については、以下の関連記事で詳細に書いていますので、興味のある方は読んでみてください。

水子供養はしなくてもいいけど、愛を感じることは必要かも

日本やアジア圏、世界中各国で死者を悼む行為は様々です。そして水子供養に関していえば、日本のオリジナルに近い文化のようなものかもしれません。

ぼくらは形や体裁にこだわるので水子供養しなければいけないとか、水子供養しなければ成仏しないと考えるかもしれませんが、ぼくのイメージだと、形としての水子供養はしてもしなくてもどちらでもいいです。したければしてもいいという程度ですかね。

もちろん、何を信仰して、どんな宗教観を抱くかは本当に自由です。ただ、供養するよりもぼくは愛に関して、自分に関して、生命に関して思いを馳せる「供養」=自分における感情の整理がとても大切だと感じています。

水子供養=感情や感覚の学びと整理

流産でも中絶でも自分のお腹にいる赤ちゃんを喪失することは、かなりショッキングな出来事です。繰り返しますが、水子は祟りませんし、呪いもしません。なので、お墓をたてて、それっぽい人に供養をしてもらって、お供えして、みたいなことをすることで、

自分の罪だけが浄化されたわ!で終わらせるのは少しもったいないです。その出来事を「過去」のものとして消化したところで、また次に愛や命のテーマにまつわる何かを提供されたときに、また自分の罪で終わらせていないでしょうか?

もっとふかーーーい視点と大きな愛をもってハートで感じ取ってみてください。赤ちゃんは天才すぎるので、何に想いを馳せるかはとても自由ですが、死や生命から受け取るモノはぼくらがどんな存在であるか的なところまで派生できることです。

苦しい体験、辛い出来事として感情の整理+アルファ、余力ができたとき、本来の自分にかえれる手助けをしてくれるかもしれませんね。

水子は供養しなくても魂として常にそばにいるかも

流産であれ、中絶であれ、肉体として亡くなった水子はぼくのイメージだと、お母さんやパートナーの傷が癒えるまで常に寄り添っています。そして傷が癒えた後、形を変えて、もしかしたら肉体としてお母さんのもとにやってきます。

これは、運命決定論とか因果応報とかそういうことではなく、赤ちゃんとお母さんやお父さんの選択の末の結果であり、確定ではありませんが。

ただ、ぼくの勝手な感覚としては、どのような理由であれ、どのような原因であれ、一度、縁ができた赤ちゃんはあなたを常にサポートして、常にいわゆる「無条件の愛的なやつ」を注いでくれています。

祟ったり呪うなんてことはたぶん決してありません。たぶんね。(二度目ですが大事だと思うので意図しておきます。)

それは、どちらの愛が大きいとか、小さいとか、そういう拡大&縮小した愛じゃなくて、ぼくら1人1人が気付かないだけで持ち合わせているやつです。

ダイレクトに赤ちゃんを喪失する、あるいはさせる選択を取るということは、この言葉が正しいのかわかりませんが、ショック療法に近いです。今まで遠ざけてきたモノをまざまざとみせつけられる人もいるかもしれません。

大事なのは、自分を損なわないこと、パートナーとゆっくりでいいから話合うこと、自分と対話すること、そして愛についてハートでキャッチしていくことかもしれませんね。その過程であなたのところにきた赤ちゃんが必ずサポートしてくれています。

流産や中絶、水子が原因で赤ちゃんに恵まれない?

こちらもぼくらが窮屈な価値観やオリジナルの概念を適用させると、祟りや呪いの視点から水子が原因でもう赤ちゃんを授かることができないんじゃないかな。なんて考える人がいそうなので少しだけ触れておきます。

すべてはレッスンで学びかも

ぼくの知る限りですが、流産をしたから、中絶をしたから、また水子が原因で、赤ちゃんに恵まれないってことはほぼ100%ないです。それも理由や原因の一部を担う可能性はゼロではないですが、もっと大きなテーマがあなたのそばにあるはずです。

少し厳しい表現をするとしたら、流産を経験したのに、中絶という勇気ある決断をしたのに、なにも教訓としていないのかな?とか罪を浄化という観点でしか愛情を知らないのかな?とか手放すってなに?ってことについて、ハートを使っていないということです。

もちろん、色々な方がいて、様々な理由があるので、一概には言えませんが、水子が原因だったり、流産や中絶をしたからといってもう赤ちゃんは・・・。ってことはほぼないです。

子どもを授からない、不妊の原因や理由については以下の関連記事で詳しく言及していますので興味がある方は読んでみてください。

まとめ:水子からぼくらが学ぶテーマは愛とか命とか・・?

水子だけに限らず、赤ちゃんの虐待や死にまつわる出来事をぼくらはかなり狭い範囲で凝縮させています。

産まれてきたい赤ちゃんを殺すなんて・・・。とか、まだ小さいのに。とかとか、ぼくらは色々なファクターを度外視して、「死」になると過敏にそして過剰に悲劇だけをピックアップします。

生まれるべき命は、生きている命よりも価値があるとか、身勝手で自己中心的な生命には価値がないとか、寿命の長短で命の価値が決まるとか、ものすごく偏屈で頼りない愛情しかまだまだ知らないだけかもしれません。

流産や人工中絶の水子も、不妊という状況もぼくらにものすごい愛をくれる存在です。そして、死は必ずしもぼくらがイメージできるような死ではないかもしれません。

命の価値判断基準に関しても、ぼくらは本当に先っちょだけしか見つめていないかもしれません。もう少し、色々な角度から生命と対峙することで、ぼくらは本質っぽい愛に近づける存在です。まあ、なにが本質かといえばそんなものないんでしょうけどね。苦笑

せっかく、この地球に来ているので、重い愛も軽い愛も知って、喜びも悲しみも、あらゆる尺度の体験や経験を肉体というフィルターを通して学んでいけたらいいですね。

ちなみに、少し、水子とは離れますが、キルギスという国では「誘拐結婚」というカルチャーが存在します。女性を攫ってその日に結婚します。その女性が相手を好きかどうかは関係ありません。

女性は妊娠して子どもを生みます。もしかしたら、流産をしてしまうかもしれないし、そのまま生まれるかもしれません。

その愛は悲劇ですか?喜劇でしょうか?幸せでしょうか?不幸でしょうか?ダメなモノでしょうか?良いモノでしょうか?許されないことですか?

そこに生まれた子どもは可哀想なのでしょうか?豊かなのでしょうか?罪を背負うのでしょうか?償う人生になりますか?ハッピーですか?バッドエンドですか?

そこに真理や答えなんてなくて、よくわからなくないですかね?

ぼくらが一義的に捉えられるようなモノではないのが、この生命にまつわることなんだとぼくは感じています。なんというミラクルな体験をしているかぼくらはもう少しオトナになって考えてみてもいいかもしれません。

いつも本当にありがとうございます。

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