今回のテーマは「怒り」です!
おおおおおおおい!
※この記事は、怒りについてそれが一体全体どんな役割を果たすのか。そしてそのメリットやデメリットを捉えつつ怒りを友達のように感じるヒントになるような内容になります。
怒りはほ乳類などの動物や人間の性ともいえる防衛本能に由来しています。
とりわけ自分が大切にしている感情、価値観、モノ、人などが損なわれたと感じたり、不安や嫌悪、恥などなにかしらの根本感情の出口がなく溜まっていくと噴火した時に出現します。
今回は怒りが良いとか悪いとかいう話をしたいのではなく、自分にとって有効に使えた方が便利だと思います。思考や感情が善悪の判断ではなく、自分にとって相性が合うかどうかと考えた方が効率的だからです。
みなさんは最近に何で怒りましたか?
- 些細なことでイライラしてしまう人
- 感情表現がうまくできない人
- 怒りと友達になりたい人
- 感情が良くないものだと決めつけている人
なぜ怒りの感情を抱くのか?
自分あるいは自分の味方や他人の価値観が否定されたり、何らかの精神的・感情的・肉体的に損なわれたと思うとき人は怒りを感じます。
言い換えれば、自分の理想や期待、願望が裏切られたときに生じるものが怒りです。
いわずもがな、あくまで自分の理想や期待による主観ベースなので、何に怒りを感じるかは本当に人それぞれです。
みんなそれぞれ「自分も人もこうあるべき」みたいなルールとも呼べる、思考パターンを持っていますから、そこのいわば信念が拒絶されるときに起こるのが怒りです。
怒りの奥に隠れているもの
それゆえに、心理学では、怒りは自分を守るための二次感情といわれます。
「悲しい」「悔しい」「つらい」「寂しい」「不安」「苦しい」などの一次感情が蓄積され、それが自分の無意識でも意識的でも許容量を超えたときに怒りのリアクションがでてきます。
このネガティブな感情というのはたいていの場合、自分の信念が損なわれたと錯覚することにより起こります。
例えば、子どもが動き回って食事をしている姿にこら!ダメだよ!とわりとイライラして怒る親がいます。よくある風景ですね。
これを心理的にみてみると、
食事をするときに座るのは良いことで、食事中動き回ることは非倫理的なことという思考パターンやルールがその親にあります。
なので、食事中動き回る子供をみて、自分の価値観がわかってもらえなくて悲しいから怒りで表現するし、あるいは公的場所なら、周りからダメな親認定されて恥ずかしい、つらいなんかもあるかもしれません。
食事中動き回る子供をみて、叱る、自分も一緒になって動き回ってみる、あるいは周りがいたらその人たちに謝りまくって目をつむってもらうなどなどいろいろな選択をとっても法律違反にはなりません。
でも、叱って子供を座らせることにこだわるのであれば、それは、彼・彼女にとってとても大切なことだからです。
怒りのメカニズムがなんとなく共有できたとこで、次に怒りのあるあるパターンをみていきましょう。
①「〇〇であるべきだ!」
これはよくある怒りのパターンですよね。
上の例で出した自分なりの価値観や基準から外れたら怒りが出てくることもあれば、自分がコントロールがスムーズにできないところ、例えば、政治、経済、社会体制やシステムなどもそうだと思います。
マスクをつけることが正しいとする価値観を持つ人からしたら、しない人は怒りの対象になるだろうしその逆もまたしかりです。
これはもう完全にパワーゲームにおいて起こる怒りなので、なるべくなら、自分の心地いいことだけをして他人や周りの責任は負いすぎないのがポイントになると個人的には思います。
②否定・誤解されたときの怒り
自分は悪くないのに。。こんなに我慢しているのに。。正しいのは自分なのに。。。こんなに頑張っているのに。。
まるで、自分がわるものになったかのようなときに起こる怒りの種類の1つです。
親しい人に傷つけられた、理解してもらえなかった(≒自分の価値観が拒絶されたと感じる)ときに人は悲しみ、そして怒りの感情を出します。
嫉妬による怒りもこれですよね。
この手の怒りを抱きやすい人は、おそらく突き詰めると、セルフラブやセルフリスペクトのレッスンがあると思います。
③被害を被ったときの怒り
こちらは①や②と、少し毛色が違うんですが、自分の権利や所有物を侵害されたと感じるときに起こる怒りです。例えば、モノを盗まれた、不慮の事故でけがをしたなどです。
一方的な被害者になったときそれを補填する何かがあれば怒りも静まる傾向が強いと思うのですが、そうでないときはスピリチュアルから切り取るとエネルギーの転換点、あるいは学びやレッスンとして捉えるほうが
消化効率がいいかもしれません。
怒りのあるあるも理解できたところで、次に怒りについてのメリットをみてみましょう。
怒りは身体にも心にもよくないからイライラしない方がいいといわれますがどうやら良いとか悪いとかそういう話ではないみたいです。
①自分が大切にしている思考に気が付く
ここまでお伝えしたように、怒りは自分が大事にしているモノを損なわれたと感じるときに起こる防衛本能です。
なので、自分が大事にしているモノがわかります。
ここで、価値観としなかったのは、怒りは突き詰めてしまえばパターン化された思考とその思考が自分のすべてだと錯覚している状態にこそ起こりうるからです。
エックハルトトールの言葉を借りるならペインボディなんですよ。
なので、自分が生まれてから、あるいはスピリチュアル的に言えば生まれる前から抱いていた自分の一部でかつそれが大事(≒自分のすべて)だと錯覚してきたものです。
これに気が付けるのは本当に大きいです。自己認識ですからね。
②境界線
怒りの2つ目のギフトは、「境界線」です。自分と他人を隔てる物理的・心理的なボーダーラインのことです。
この境界線は2つあって、1つは、内側の境界線いわば自分ルールです。もう1つは外側の境界線で自分が適用しがちな世界におけるルールです。例えばお年寄りには席を譲るとかですかね。
言い換えれば、怒りによって、自分がどの程度であれば尊重していると感じられて、どの程度であれば尊重を与えられていないと感じるのかの尺度になります。
境界線が緩ければ緩いほど良くて、きつければきついほどいいという話ではもちろんありません。緩いといわゆるワンネス的な意識に近づき、きついと個がはっきりしてきます。
そのどちらもイコールで素晴らしいんですが、どちらかが好きかはその人の性質や好みによるものです。
なので、怒りを出すポイントがどこなのかを理解することで自分がどの部分に境界線をもっているかがわかります。
③自分と他人とを保護する能力
境界線の延長になりますが、境界線を引く一番の目的は、自分と他人をイコールで尊重することにあるとぼくは思います。
例えば、ぼくらのほとんどが、条件がないと自分は不完全・不自由である。という価値観を蓄積します。お金があれば自由が買えるとか、誰かの許可や応援があれば完全になれるとかですね。
それ自体が良い悪いとかではなく、自分の自由は外側に規定されるもの、反対に自由は外側を邪魔して獲得するものという価値観を無意識下で構築するからです。
怒りを出すことによって、どこから先が自分のアウトで、自分のセーフかを相手に知ってもらうことができ、かつ自分で知ることができます。自分を守るあるいは誰かを攻撃するバランスがわかるといえるでしょう。
言い換えれば、自分のモチベーションがわかると言えます。怒りは自分の原動力になりますから。
誰かからバカにされてムカつくから努力して見返したい。なんかもこれですからね。ただ、行き過ぎると、バカにされた相手に仕返しして自分がすごいやつってみせつけたい。みたいに相手を貶める方向にも怒りのエネルギーは使えちゃうところが厄介です。
次に怒りはバランスがいい限りは健全に使えるものだということが少しずつわかりましたが、問題はイライラが日常になったり、イライラしてもそれを我慢するのが癖になっているときだと個人的には思います。
①境界線がわからなくなる
怒りというのは、自分の大切なモノを守るための兵隊さんみたいなやつです。
これを出しすぎた場合、ゴールキーパーのいないサッカーに果敢にも挑戦することになるため、自分が大切にしているものが一体全体なんなのか理解するのが難しくなるときがあります。
例えば、悪口を言われてうれしい人はほとんどいないと思いますが、仮にあなたが誰かから悪口を言われたとしましょう。
健全な怒りの(エネルギーの)出し方は、それ言われるの嫌だよ。とか、そんなこと言われたら傷つくよ。って感じです。
でも、アグレッシブに出しすぎると、そういうこというからお前は人格破綻しているとか、悪口言っている全員〇ね。とか守る役割の兵隊さんを攻撃に参加させることになり結果、無防備状態で、本当に自分が大事にしている思考がわからなくなります。
単純に否定や批難してきた相手を攻撃しても何の意味もないよという話になりますね。
怒りの本質的なエネルギーからこれが生じるのではなく、問題は怒りを武器として利用し、健全に使わない思考にあります。
②価値を奪われる
じゃあ、武器に使用せず我慢すればいいのか。という話がでてきますが、こちらも極端に怒りを抑えることは、自分に対する無価値観や世の中に対するあきらめ感に切り替わります。
ゴールキーパーが相手のゴールをアシストしている状態とイコールになるからです。
そうなると、自分が大事にしているものは奪われて当然、あるいは、そもそも自分なんて大事な存在じゃないからどんどん好きなだけやってくれ。とセルフラブやセルフリスペクトが消え去ります。
怒りは純粋なI amのエネルギーなんですよ。
さて、怒りは本当に絶妙なバランスによって成り立っていることがわかったところで、怒りをどうするかを2つの方向性で紹介してみます。
①健全に使うパターン
怒りは、先ほども言ったように、自分のエネルギーを前面に押し出す原動力になります。
なので、健全に使えているうちは問題はまったくありません。悔しいから頑張る、見返したいからやるぞ。が心地よければその怒りを大事にした方がいい感情や思考の1つです。
ただ、それを抱き続けて、自分がモヤモヤしたり、自分を認められない部分があるなら、やっぱり思考回路や信念体系をみつめなおす必要があります。
なので、例えばですが、
自分がイライラくるポイントを分析してみましょう。なぜ、いつ、どのように、どこで、誰に対してそれが出やすいのかを紙に書いてみるといいです。
怒りはさきほどもお伝えしたように2次感情です。なので、怒る裏側に、さみしさ、悲しさ、嫉妬、孤独、無価値観などが隠れていないか自分にきいてみましょう。たいてい幼い頃の体験によるものがこのステップでみつかります。
その時出てくる感情をなかったことにしたり、その原体験を忘れてください。ということではありません。そんな自分もいるよね。寂しいからついついイライラしちゃうよね。とよしよししてあげるのです。
もし、対象がいたら、自分は怒っているわけじゃなくて、さみしくてついついアグレッシブになっちゃうんだよとかを伝えつつ、ごめんなさい、ありがとう、許してください、愛していますとホ・オポノポノ感を共有するのもありだと思います。
許しと同時にでてくるのは、その思考が本当に役に立つのか否かという自問です。寂しい思考やエゴが自分のすべてだと思って、それによって同じパターンになり、それに嫌気がさしているのであれば、もうこの感情や思考からの学びは終わりました。ありがとうございますをしてあげるといいです。
ポイントは怒りを抑えるとか、怒っている自分を責めるとかではなく、ただ自然に出てくるリアクションとエネルギーとして捉え、うっ滞させないところです。
②怒りを「病」と捉える
これは、誰かに怒りを抱く人にも、誰かから怒りのエネルギーをぶつけられる人にもおすすめです。
さすが、エックハルトトールですね。
自分が怒りを抱くときも、誰かが怒りを抱くときも、それは、「別の行動をとることができたじゃないか!」という思い込みによるものなんですよ。
怒りがアグレッシブに出すぎている場合は、思考と自己の同一化で、それは病なんですよと彼は言います。
病を抱いた人に対しては、「思いやり」(原文は憐み)なんじゃない?って結びもぼくはとても好きです。
ちなみに、彼のいう思いやり、憐みとはぼくらが思う思いやりとは少し違うところで、あなたと万物を結ぶ深い絆への気づきのことを言います。
つまり、エネルギー的につながっているよね。という気づきです。この辺りは以下の関連記事でぜひご一読ください。
まあここまでいくと本当に人間越えちゃうなと思うので、①をやっていくうちになるほどおおとなるようなイメージをぼくは持っています。
人間の感情というのは本当に複雑で扱いが難しいですよね。それは他人の感情もそうですが、自分の感情ならなおさらです。
ちなみに、感情にはふたつの側面があって、1つは思考の状態に応じた身体の反射です。言い換えれば、心に苦しいうれしい楽しいなどの反応が起きたときは、身体が魂にメッセージを送っているというものです。
例えば、誰かに肯定された→思考が自分は肯定される人間だ→うれしいなどの感情が起きて、身体が反応します。
もう1つは思考と感情にギャップがあったとき、それは感情がその人を表す真実ではないんですが、一時的であれそのときの本音を示します。
いずれにせよ、自分の大事なものということです。
なので消したり、否定したり、あるいはそこに飲み込まれすぎたりする必要はないんですが、必要なとき、そして状況に応じていつでも、臨機応変に助け舟をだしてくれるやつだと思うのがいいと個人的には思います。
それがネガティブな感情であれ、ポジティブな感情であれです。
西アフリカのバッサ族という民族のことわざに、「もし一度も怒ったことがなければ、あなたは生まれてすらないだろう。」
という怒りにおけるポジティブなことわざがあります。怒るとはI amを一番初めに表現できるツールなのかもしれません。
抱き続けたり、取り扱い間違えると自分がやけどを負うけどね。
みなさんは怒りをどのように扱っていますか?いつも読んでくださって本当にありがとうございます。