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死とはなにか?スピリチュアル的な死の意味と死生観について

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まめたろう

今回のテーマは「死」です。

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たっかぶり

アレらしいで。

※この記事は、「死」についてなるべくわかりやすく、スピリチュアルでいわれていることなどをまとめた内容になります。

「死」ってどんな定義があって、どんな意味があるかみなさんは考えたことがあるでしょうか。いわゆる死生観というやつです。

目に見えるぼくらの世界で、一般的に死は、不安や恐怖、悲劇や悲しみ、悼むべきものとして教わります。(主に生きている人から。)

目に見えないスピリチュアル界隈で、一般的に死は、卒業、変化、無に還るものと言われています。(主にはそれっぽい人に。)

死とは何か?についてなんとなく感じてるイメージを共有して、ちょっと哲学な自分を感じてみる内容になります。

読む人によってはセンシティブな内容になるかもしれないので、感情的な部分はニュートラルにいれて読んでみてください。

今回お伝えしたいこと
  • 死とはなにか?
  • 死の捉え方まとめ
  • 死は存在する?しない?
  • 生きるとはなにか?
  • まとめ

死とは何か?

死の定義ってめちゃくちゃムズイんですよね。

理由としては、ぼくらが死んだことないから。そして、実感できず、分からないモノに対して、イメージを塗りたくっているからです。

まずは、一般的に「死とは○○」について言われていることを見ていきます。

生活機能の停止

医学的観点からも「死」については、賛否両論あるところですが、一般的に解釈されているのは、以下の定義です。

死とは?

生活機能が不可逆的に失われてしまった状態

個にある現象としては、呼吸機能の停止とか、心拍の停止とかそういうやつです。

簡単に言ってしまえば、肉体が機能しなくなればそこを「死」とする解釈論です。

目撃するけど、わからない

人間としての死は、肉体が消滅することをほぼどんな文脈でも意味するでしょう。

例えば、大切な人、身近な人、見知らぬ人、まったく関係ない人の肉体が消える状態は恒常的に目撃できます。

しかし、ぼくらは、自分の死(と思われていること)に対しては、それを目撃したり、実感はできない感覚が強いのではないでしょうか。

テレビで誰かが殴られて痛そう。とか、悲しい出来事をみて悲しいって感情が湧くのは肉体が大前提にあり、自分の経験や肉体の蓄積に基づけるからです。

死は、実感できる容器が消えると定義されていることがほとんどなので、

他人の死は目撃はできるけど、自分の死については、イマジネーションを働かせることで形作っていくモノに限りなく近いんでしょうね。

実感できないがゆえに・・

死の定義がメチャクチャむずいのは、それが自分の体験として未知なモノだからです。

もっといえば、肉体で体感しようとするとその一般的な定義ゆえに、肉体ありきのぼくらにはどうしても矛盾が生じてしまうからです。

だから、目撃してきた死で、その解釈において、イマジネーションの範囲を限りなく増やそうとしているのが肉体としてあるぼくらですね。

死は悲しい、不安、恐怖などネガティブなイメージがあるのは、そういう目撃をしてきたからです。

そして、死は喜び、卒業、無に帰すもの、なんでもないふつうのこととわりとポジティブなイメージで捉えるのは、そういう解釈を受容しているからです。

どれが正解でどれが不正解っていうことではもちろんありません。

ぼくの友人は、看護師をやっています。胸アツな自分の体験を書いてくれているのでよかったら読んでみてください。

人間的に感情に寄り添う死の解釈はこれですね。

哲学者が捉えている死とは?

人の数だけある死生観かもしれませんが、少しだけ哲学的な面から死の解釈を紹介してみます。

①エピクロス派

古代ギリシア哲学者のエピクロスは、死を以下のように解釈しています。

死の解釈論①

死は存在しない。だから考えてもしょうがない

理由としては、経験は生きている間のみ可能だから、死んだらそれ体験できるものではないで。というコンセプトがあるからです。

要するに、死なんてどうでもいいというわりとパンクな考えです。

②プラトン派

イデアで有名なプラトン先輩は、死の解釈を以下の通りにしています。

死の解釈論②

死後の世界が存在し、魂がハデス(楽園)に存在し続ける。

プラトンの死のコンセプトは、イデア(真理)に基づきます。彼によると、現実世界は、全て非存在で、イデアが不完全な形で現れたに過ぎないと。

魂や肉体もまったく一緒で、死んだらイデア的魂(真理の魂)に戻ると大雑把に解釈してもいいかもしれません。

厳密に言えばじゃっかん違うんですが、スピリチュアル的解釈の無に帰すと似ているかもしれません。

③ハイデガー派

ドイツの哲学者である、マルティン・ハイデッガーは死を以下の通りに解釈しています。

死の解釈論③

自覚すれば、人間の本来的な存在の意味を明らかにできるモノ

ヤスパースも違いはあれど結論はここに帰着します。

つまり、エピクロスやプラトンと違って、死を真正面から受けとめることで、未来の在り方が本来の自分に近づくというコンセプトですね。

ちょっと乱暴な解説をしてしまうと、

死(ゴール)が存在の消滅を意味するから、そこを真正面から自覚することで、今や未来がより能動的にパッションで選べるで。というスポ根満載なイメージです。

④シェリー・ケーガン

せっかくなので、流行っている?方を紹介します。

シェリー・ケーガンは死そのものが何であるか?というよりは、死が悪い・怖いとされるのはなぜか?をアピールしています。

簡単に言ってしまえば、彼の主張は、死は怖いモノでもなんでもないです。怖いとされるのは、剥奪説(未来に得られるべき結果が失われる)があるから。

また、魂は存在しない立場をとっていて、死の状態を、人格が存在しない時期と定義しています。要するに眠っているときとほぼおんなじみたいなイメージですね。

二元論か物理主義か

学問的に死がなんであるか?を今のところ突き詰めていくと、二元論的解釈か物理主義的解釈かの2パターンが大枠にみてあります。

つまり、ぼくらの存在を魂と身体の二元で捉えるか、それとも身体メインで捉えるかですね。

死で訪れるとされる「消滅」もそこがキーポイントになっています。

スピリチュアル的な死の意味は?

ここからは、スピリチュアルでよく言われる死の意味をご紹介します。哲学っぽい感じもあるんですが、ニュアンスが若干異なります。

波動の変化

スピリチュアルっぽい観点からぼくらの存在を突き詰めると、意識です。魂や無意識、潜在意識、ワンネスなんて言葉を使うひともいます。

だから、肉体の死は確かにあるけれど、意識は消滅しないので死はないのと同じです。

プラトン的なコンセプトに近いですかね。

卒業なんて言葉も使われていますよね。

要するに、肉体ありきの世界から、一歩か二歩くらい意識している場所が変化することを死と呼びます

肉体に魂があるのか。魂に肉体があるのか

プラトン的な死の解釈と、スピリチュアルっぽい解釈の何が違うかというと、ニワトリが先かタマゴが先かみたいな話になります。

プラトン的な魂不滅やで。の立場は、(かなり大雑把ですが。) 肉体の中に魂があると考えるシチュエーションが多いです。

一方でスピリチュアルっぽい解釈になると、魂の中に肉体があると考えます。

「いま」現時点で、ぼくらが肉体(心や身体・精神)にリアリティがあると錯覚しているのは、肉体と魂が別だと実感しているからです。

そして、死の「いま」の時点になると、肉体と魂の意識している場所が一致するとも言えるかもしれません。

ちなみに、ここでいう魂は魂の一部ともぼくはいえちゃうと思います。

死はないしある?

死についてはどんな解釈を持ち出してもそれが不正解にはなり得ないです。

だからといって、死はこうなのです!という一義的な正解で括れる類の現象でもありません。

自分がどの虫眼鏡をもって、どんなカラフルな色が好みで、どういう視野と視点でぼくらがいま、この時点に存在しているかが死生観の彩りを決めるんでしょうね。

まったく誤解を恐れず言ってしまうと、肉体の死がちゃんとあるぼくらは案外とても贅沢な場所に存在している証拠になるかもしれません。

もし、ぼくらの本質が意識で、そちらにしかリアルを体感できないとしたら、

個における死は、いつ死で、何がどうなれば死になって、どういう状態が死というものがわからないでしょうし。

スピリチュアルにおける死の解釈
  1. 波動、周波数の変化
  2. 視点・視野の変化
  3. 肉体と魂の一致・統一

まとめ:死における解釈は自由かも?

日常的に目撃する死について、不完全なぼくらがイメージすると、それがあまりにもリアルすぎる(と錯覚する)ことから、一気に意味合いが縮小します。

死における悲しみとか魂理論とか、二元論とか物理主義とかですね。

どう切り取るかはとても好みなんですが、そのあたりをついついぼくらは忘れています。

突き詰めてしまうと、この世界にどれが真実なのかっていうのはないんですが、

少なくともいまぼくらが魂の一部の中に、肉体や精神や心をいれられるのは非常に面白いとぼくは感じています。

1つの最新モデルのメガネをかけてみれば、生きていることはものすごく奇跡だし、死なんて残酷だ。になるでしょう。

また別の旧式メガネをかけてみれば、死んでも意識やで。になるし、

もっと別のあるはずのない未来型メガネをかけちゃえば、生きていること、そのものの定義も移ろっていくでしょう。

みなさんは自分のなかにある死生観ってどんなものでしょうか?そしてもし、それが存在観を光らせるものだとしたらどんなものでしょうか?

いつも読んでくださって本当にありがとうございます。

質問や意見があればコメントやSNSまでくださいませ。

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2 COMMENTS

5歳くらいの時から辛いことも悲しいことも楽しいことも経験してきたからもう飽きた。これが続くだけでしょ?ってずーっとなってました。

スピ知ってからは死んでいるのも生きてんのも変わらないなあと思ってます。
ていうか私死んだことないしよくわかりません。

でもここだと楽しいテーマですよね〜。

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