ヒーリング基礎講座開催11月20日~

仮に今が死後の世界だとしたら?スピリチュアルにおける死生観と存在観

ここが死後の世界かも。

まめたろう(僕)

ペドロ

存在観にも通じます。

※この記事は、カルマや宗教観を交えつつ、死生観について色々な観点から探ってみる内容になります。みなさんは死をどのように捉えているでしょうか?死をいろいろな解釈で切り取るとそれはぼくらの存在みたいなところに繋がるっぽいですよ。

スピリチュアルでもよく出てくるこの「死」については、本当に色々な考え方や感覚が湧きおこりますよね。とりわけ、死別なんて言葉があるように、ぼくらはグッバイ的なニュアンスを大切にして、日本では先祖を大切にする感じでしょうか。

ぼくらは魂だから、意識体だからよろしくって言われても悲しいものは哀しかったりもしますよね。みなさんはどんな死生観をもっているでしょうか?

死生観と存在観

死=フィルター交換?

どうもペドロです。

今回は僕なりの死生観を述べてみようと思います。と言っても、無いんだなこれが。どちらかと言うと存在観になっちゃいますね。

番の論点は死ってあるのかってとこだと思うのですが、やっぱりそこはどこまで言っても証明できないですよね。臨死体験も結局生きている人の意見であったり、イタコさんの降霊もイタコさんは生きているし、フィルターがかかる可能性がありますよね。

このフィルターなんですが、今回の主役はこいつです(笑)

肉体の死が訪れる時に行われるのはこのフィルター交換なんじゃないでしょうか。エアコンの掃除感ありますけど、存在はどこまでいっても存在から外れることは無いはずなんですよね。

ペドロの肉体の死はそのフィルターが剥がれることを意味し、なにがしかのフィルターを転生するまでの間装着して、次の肉体のフィルターを着けると。それがカルロスなのかミゲルなのかは分かりませんが、このフィルターが外れることは基本無いと思っています。

なぜなら、このフィルターは個であるために必要だからです。つまり、フィルターが無い、というのはソースだとか創造神に還った時に返却されるものなんでしょう。

フィルター交換なんですけど、完全に綺麗に剥がれるわけではなくて、蓄積していく部分もあります。バリバリ!って雑に剥がして、残ってもこれ学びや気付きに利用したろ!みたいな(笑)

死生観とカルマ

例えば死後の世界をキリスト教的、あるいは仏教的に捉えていた場合それらが反映されるのかなあと。転生を信じていなかった場合それは当人には無い事になっているので霊界的なところに残留することになっちゃうかもしれません。

それがダメとか苦しいのではなくて、そういう生活があるだけですね。そのフィルターが悪さをしていたときカルマとして現れるとかありえそうですよね。僕の中でカルマというのはそんなにネガティブな印象は無いです。

ネガティブな現象として出ることはあると思うのですがカルマ自体にはポジティブに感じています。例えば数々の役をこなす役者がいたとして、泣く演技だけ上手くいかない場合、劇が終わる毎に次の役では泣く演技を上手くやってみせると意気込みます。

カルマもこれと同じで、根底にあるのは向上心というポジティブなものですね。

無宗教的、死後の世界など存在しないと信じている場合はどうなるのでしょう。

無宗教にも無関心タイプと唯物主義?っぽいものがありますけど、前者はある意味観念がクリアなので、『ふーん死後の世界あるんや、いっちょ転生したろ』ってな具合なケースもありそうです(笑)

後者の場合やはり死後は無い、無いのですが、そういった世界はちゃんとあるんですね。コップに水が半分入っていて、それを多いか少ないかの判断がフィルターの機能ですがコップに水が半分入っているというリアルはやはりあるんですね。

なのでよく分からない世界をしばらく探検するんじゃないでしょうか。そして1つのリアルを認識した時に選択があると。

死!とか生!って捉えると全然違う世界っぽくなりそうですけど、仮に今が死後の世界と捉えてみたら結構面白くないですか?こんなもんか、みたいな(笑)やはり未知であることには変わらないので、どうなるかは分からないんですけどね。

自分の死と他者の死

死って自分のものと他者のものではまるで違う意味を持っていますよね。自分の死は分からないのですが、他者の死は分かりやすいです。

死は無いというのは合っているのですけど、これって結構乱暴な言い方なのかなって感じますね。死は無いけど、別れはある、が正確でしょうか。死後の世界では地球で縁のあった人全員が既にいる(時間の概念が無いので)とか、ここではスピっぽいことは置いときます(笑)

残された者には厳然とあるわけですし。穏やかな別れかた、凄惨な別れかた。それぞれですけど、人が感じる死への忌避感ってこういうところですよね。ですから死は無いと言われても『そっか~死はないのか~』とはならないですもんね。

存在観は円のようになっていて、いわゆる生や死が別々ではないんですね。状態の変化、存在の衣装を変えているような感じでしょうか。当たり前ですけど生きている喜びや別れの悲しみは確実にありますよ。

存在観を分割、二元的に捉えると死生観になると思っていて、二元は対立や良し悪しに発展しやすいですよね。生が善、死が悪、あるいはその逆など。まあ二元的なの良くないよって話ではなくて、システムの説明みたいな。これ、結局大したこと言ってないやつですね(笑)

いつも読んでいただきありがとうございます。

スピリチュアルにおける死生観をどう活かすか?

ぼくら死んだらどこにいくんでしょうね?

まめたろう(僕)

死生観も人それぞれ異なる価値観があってとても興味深いことのひとつだと思います。ペドロさんが、「肉体の死が訪れる時に行われるのはフィルター交換。」とおっしゃっていましたが、ぼくも同じイメージをもっています。

もっとポップに表現すると、衣替えとか卒業式かな?みなさんはどう捉えているでしょうか?

死生観=死に方?

ぼくらは「死に方」にフォーカスすることも多々あると思いますが、これは例えば他殺だろうと自殺だろうと、老衰だろうと病気が起因だろうと関係ないです。

ここでいう、「関係ない」っていうのは、悲しんではいけないとか、悲観的になるなとかそういうシンプルに涙腺や怒りの伏線を突く主張ではもちろんありません。

死を悼む行為は、ぼくらオリジナルの価値観の1つなので、そこに浸ることもとても尊い時間だとは思います。ただ、あくまでそれはぼくらが肉体という存在をありありと意識している場合に限りますよね。そういう時間ももちろん必要ですが、そこからちょっと抜けると、

ぼくのイメージでは死を知る、つまりあらゆる角度から「死」を見つめることは、徹底的に今に在ることを自覚する一歩なのかなとも感じています

死は生き方をみつめるきっかけになるかも

ここでいう今に在るってことを自覚するファーストステップというのは、ぼくらは肉体的には終わるけど輪廻転生で生まれ変わるからよろしく!とか、魂は死なず。とか死ぬ前にたくさん徳を積みなさいとか、

いわゆるスピリチュアルにぼくらのツムツム理論を重ねた意味合いではもちろんありません。もちろん、それで救わる人がいればそれはめっちゃ良いことだと思います。

死ぬことについてある種の気付きや学びを得るって、これは死んでみないと、あるいは死に自覚的にならないとわかりませんよね。

ぼくも正直、死は終わりでない。死後の世界がある。死んでも魂は残るから。と言われてもイマイチようわからんし、率直に言ってどっちでもいいです(笑)その時がくればわかるし、もしかしたら生きているうちに思い出すかもしれませんので。

ただ、やっぱりどのようなプロセスを辿るにせよ、死をあらゆる観点から捉えなおすこと。つまり、ぼくらが焦点をあてがちな、死=悲観的なモノ、悲しい寂しい、死=悪。みたいな価値観だけでなくて、

ペドロさんの言うような存在観やフィルター交換の意味合いからみつめてみると、今、この時点で、どのような形であるにせよ、ぼくらが生きていることがちょっぴり神秘的で意味合いに色彩や膨らみがでてきませんかね?

スピリチュアルにおける「死」の落としどころ

ぼくのイメージや感覚では、肉体から離れてしまえば、死も生もその境目はほとんどないんですが、死後の世界があるとか、見えない世界に関して、それが本当か嘘かなんてことを議論するのにエネルギーを使うのはもったいないと感じています。

どうせわかる。の一言で片付きます。(笑)なので、それぞれが人生に適用させたいところだけ、信じたいところだけ信じれば良いんだと思います。

ペドロさんが、仮に今が死後の世界だったら・・とおっしゃっていましたが、ぼくはこの死における、ある種の「柔軟性」は色々なスピリチュアルにおける考え方がある中で、結構好きな部類に入ります。

というのも、とりわけ自分の死において、死んだら、はい終了~!って誰かに言われることはなくて、ぼくらは意識の存在として形を変えて在り続けるってけっこう奇跡っぽくないですかね。

これ、逆のルートからみると、人生において大なり小なりみなさん不満があることは一旦隅っこに置いておいて、今、ここにこの瞬間、パーツや境遇で肉体として在るってけっこうすごくないですかね?

もっと言えば、自分が何をどう選んでも良いはずなのに、今、奇跡的に人間やっちゃってるってけっこうおもしろくないですかね?そして、この感覚がなんとなく、そうかもな~。とか、言葉ではうまく形容できないけど、そういうのもアリかもな~とゆるーく思えたら、

自分に気が付くという意味合いにおける覚醒や目覚めに繋がるひとも少なからずいるのかなと感じています。

みなさんは、どんな死生観や存在観をもって、今の人生を生きているでしょうか?

ちなみに、ダンカン・マクドゥーガルというアメリカのお医者さんは、命(魂)の重さは21グラムかもしれないっていう実験していたけど、ぼくは1という数字が好きなので1グラムくらいはあって欲しいと思っています(笑)

いつもありがとうございます。

2 COMMENTS

Navi

ペドロさんの臨死体験も結局生きている人の意見…

私の体験です。
○幼少時に動物に蹴られ激しく転がった時に肉体から離れた感覚がありました。
○幼少時に車にぶつかったはずなのに、無傷。
○成人して運転中の事故時にブロック塀を避けて、僅か数秒のことでしたが、スローモーションのようにカーブを曲がりフカフカの植木等の捨て場の中に車ごとすっぽりと入った際に今までのことがパラパラ漫画みたいに見せられた感覚は不思議でした。車はスクラップ同然になりましたが、私は無傷でした(^-^;

私の体験で、一応まだ今のフィルターですが、死=フィルター交換?ってとてもしっくりくる感じがします。論点がずれていたり、解釈が?かもですが(笑)

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まめたろう

Naviさん
コメントありがとうございます!
幽体離脱とかですかね。不思議な体験です^^
フィルターチェンジですよね。

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