ヒーリングセッションやっています

ファジーなアウェイク二ングがスピリチュアルにおける覚醒かもしれない件

今回はペドロさんの覚醒体験談

まめたろう(僕)

ペドロ

いや、覚醒ですらないです。

※この記事は、感性爆発なペドロさんの「目覚め」体験をベースにスピリチュアルな覚醒ってファジーな感じで捉えどころがないところをお伝えする内容になります。みなさんはどんなアウェイクニングを体験したいですか?

ペドロさんは、これが覚醒だったら覚醒ってたいしたことない。って言ってましたが、ぼくのイメージするワンネスとか覚醒にぴったりなものを投げてくれたのでご紹介させてもらいます。

ぼくが以前覚醒ってふつうって表現をしましたが、その一瞬に浸るかどうかがおもしろさだったりはするんですよね。覚醒のイメージを壊してしまったらごめんなさい(笑)

当然ですが、これが絶対的な覚醒だ!ってモノはひとつもないとぼくは思っています。

感情はどこからどこへいくのか?

感情の「点」と「線」

どうもペドロです。

例えばなんですけど、今このブログ読んでる時どんな気分ですかね

幸、不幸、喜怒哀楽とかってありますけど案外どれでもないのではないですか。日常的に感じるものって喜怒哀楽におさまりきらない何かである部分が多いと思います。こう…ファジー的な。

そんなファジーな毎日なのに人と共有できるものは記号的な『喜び』とか『怒り』とか『感動』だったりしますよね。特に細かいニュアンスが伝えにくいSNSではその傾向があるかもしれません。

そういう微妙な感情を分かち合えたら面白いだろうなあと思う今日この頃。

ブログがファジーなのはアレなので今回は幸福に焦点をあててみます

皆さんの幸福になる手段ってなんですか?欲しいものを手に入れるとかですかね。

よし!まずはここから片付けよう。まずは物欲から。

高価な物、例えば家を買ったり、車、楽器、そこまでいかなくても高級ヘッドフォンとかでもいいのですが、買った時の「嬉しさ」を手に入れた時の高揚っていつまで続きますか?

僕の物欲って聞いて思い付くのは、スーパーで3日分くらいの買い物をして、片手にその袋を持っているとします。そして手が痺れてきて反対の手に変えますよね。

その時のあの『世は全てこともなし感』分かりますかね。もうなんも問題無いみたいな。でも手ってすぐ限界くるんですよね。手に入れた時の興奮で手の痺れを忘れ…また繰り返すのです。

その繰り返しが物欲とリンクします。物は目的じゃなくて買った瞬間得られる感覚にお金を払う感じです。

「物欲ってそんなもんやろ」って思った方、そうです。そんなもんです。ですのでここに何か見出だそうとすると危険ですよね。

もちろん実用的な買い物もあれば、物欲、諸々の欲を否定するわけではありません。寧ろ賛成まである。でなきゃ人間未だに洞窟の中ですしね。

では人に認められることでしょうか。THE承認欲求。

海外は分からないのですが日本の教育機関を通過すると承認欲求体質になりがちじゃないですか?なんの説明も無しにできることを良しとされ、できないことをダメとする世界観を植え付けてきますよね。

話逸れちゃいましたけど、人に認めてもらって幸福ってのは主導権無さすぎかなあと。そもそも人の興味の対象って大半が自分な気がするのでコスパも悪い。

では好きなことをしている時?これは全てに言えるのですがそれができなくなったり、失ったり、いなくなったりした時不幸になるものは真の幸福ではないのかもな~と思ったことがあります。

例えば護身用に銃を渡されて『はいコレ護身用ね。でもたまに自分に発射されるから気をつけてね(^3^)/

って言われたらふざけんなってなりますよね。不幸のリスクを孕んだ幸福とも言えます

「今」に共に在るって?

では最後やってくる幸福について。

最後にえらい楽なのキタ!と思われますが楽とかそんな次元ではない。なんせコントロール不可である。

僕は人生で数回経験があるのですが、最初に経験したのはある夏の日。散歩に出かけた僕はふと空を仰ぐとたくましい積乱雲が視界に入り、ハッとした瞬間、見るものと見られるものの関係性が立ち消え、僕と雲は共に在ったのです

時間で言えば数秒足らずですが人の往来にも構わず強烈な恍惚感に酔いしれていました。

しかし次の瞬間こう思ってしまうのです『綺麗だな』と。

感想としては至ってふつうですが、某かの形容詞がついたその時点で過去のものとの比較が始まっているんですよね。あの時見た、だとかあそこで見たなどですね。

言うなれば『今』という状態から膝カックン食らった感じですね。この比較という病が対象をあるがまま観る事を妨げてしまうんでしょうね。

この世の全ての存在は価値があり、比べることができないのだと思います。

それを人のミクロな物差しで無理矢理計る時、対象も矮小化してしまいます。本来あるがままの対象を観ることができたときには野に咲くタンポポですら、(タンポポディスってないですよ)生命のダイナミズムに打ち震えるはずです。

その後も何度か取るに足らない状況でその感覚に襲われました。皆さんももしかしたら経験があるかもしれないですね。僕の場合、「万事うまくいっとるわ~とかこんなに幸せでいいのか!」って感覚ですね。

でもコントロールできないんでしょ?イミナイジャンと思われますが漠然としたヒントならあります。それは『今』です。

ここまでありがとうございました。

ペドロ。

覚醒と「いま」に在るということ

「僕と雲は共に在った」って変態で最高です(笑)

まめたろう(僕)

ここからは、ぼくがペドロさんが最後にポンって出してきた「幸福感」について掘り下げていきます。

結局、「幸福」って目には見えないし、掴もうとするときにはわりと苦しかったり、掴んだ瞬間は猛烈に満たされることもあるんだけど、泡みたく溶けて、一瞬で消えることが多いのかななんて思います。

食べること好きなひとが食べ過ぎたら気持ち悪くなるし、お酒好きな人がお酒飲み過ぎたら二日酔いになって翌日苦しむし、

趣味や習い事で没頭しているときは楽しいけど、ふとくる虚無感と夕方登下校する小学生の笑い声ってやけに自分の存在が無くなってしまう気持ちにさせますもんね。

ファジーだけど強烈な「今に共に在る」

話を戻して、ペドロさんのいう最後の「幸福感」ってぼくのイメージする覚醒にぴったりです。ワンネスにもマッチします。

スピリチュアルにおける覚醒って、以前も言いましたが、

例えばユリ・ゲラーみたいにスプーン曲げができるとか、ダリル・アンカみたいにバシャール(宇宙人)とチャネリングできるとか、ぼくらがサイキック能力=覚醒してるでええ!ってイメージがメチャクチャ強い気がしています。

でもそういうのって、ぼくは「覚醒していない人」でも案外つかえちゃうと思っています。

ぼくは覚醒を本来の自分に気付くとか、戻るとかわかるとかそういう表現で以前お伝えしましたが、この本来の自分ってのが、ペドロさんのいう「幸福感」=「僕と雲は共に在った」って体験にぴったりですね。

ペドロさん自身はもしかしたら希薄だと思いますが、「自分」と「雲」の境界線が限りなくゼロになって、「え?俺って雲じゃね?」って一瞬感じたかもしれません、けっこうヤバイやつですね(笑)

では、この「境界線」がゼロになる感覚って、例えば、他人の気持ちと一緒になるとか、他者を人生を愛と光でワクワクみたいなそういうレベルの話ではもちろんないです(笑)ある人にとってはそうなのかもしれませんが。

「境界線がゼロになる」ときって、ピンポイントで強烈に究極に「スベテノモノは自分じゃん!」ってなるイメージに近いです。

ね?ファジーでしょ?(笑)

「今」がヒント

ぼくのイメージだと覚醒に在る「幸福感」ってコントロールするとか、しないとかそういうモノではないんですが、ペドロさんが「今」というヒントをくれたので、ここを少し掘り下げます。

ぼくらは生きているうえで、どうしてもある現象に「価値」をつけます。それが良いとか悪いとかではなくて人間だもの。です。

例えば、花をもらったら、嬉しい。とか友達に言われたことに、腹が立った。とかですね。ペドロさんでいう「僕と雲は共に在った」っていうことに「綺麗」って価値を見出した感じです。

そしてまた、ぼくらは生きているうえで、「時間」を気にかけます。過去・現在・未来、時間は直線的で左から右に流れるモノです。まあこれもそれが良いとか悪いとかではなくて人間だもの。ですね。

この「価値」の付与と「時間感覚」の先が「今」に在るというイメージです。へ?なんじゃそりゃ?って感じですよね(笑)

一番わかりやすいところだと、ペドロさんの「僕と雲は共に在った」なんですが、もう少しイメージを掴みやすい例を挙げると、

子どものころ夢中になって、虫を解体したあのとき。子どもの頃、夢中になって土遊びした瞬間。そんな感じです。

まるで時間が存在しないように感じて、土遊びが楽しいとか面白いとかそういうことではなく、そこにだけ浸り続けている。その「今」です。

たぶん、みなさんも経験したことがあるんではないでしょうか?虫の解体は別にして(笑)そのときって、究極にそして完璧に自分の世界ができあがっているんですよね。なにかに集中して周りが見えなくなる時はじゃっかん違うかもしれません。

意識も時間も感情も、すべてなくなって自分の世界だけがイマココに在るなんて感じですかね。なんともファジーな覚醒です。

ちなみに、エックハルト・トール氏のThe power of nowがイマココに在るがわかるかもしれません。

覚醒したらどうなるの?

最後に、ぼくの視点を投げておきます。

もし、「僕と雲は共に在った瞬間」=「覚醒」だったら覚醒ってたいしたことないってペドロさんが言っていましたが、これって確かにとんでもなくふつうに思えるんですが、それが面白いところかもしれません。

その瞬間を思い出してそれを持続させなさいとか、そこにだけフォーカスしなさい。とか、その感覚をもっと知るためにスピリチュアルなことを学んでサイキック能力を。とかそういう話ではもちろんありません(笑)

覚醒を体験したら、自分や世界は完璧やんってなりますよね。それが一瞬だろうとその経験が1回きりだろうとそこはどっちでもいいです。

そして、その完璧やんって思った自分は、生きているうちに「過去のモノ」として消化してしまうかもしれません。だって生きていれば色々あるのは当たり前なので。

覚醒することで、何も生活に変化はないかもしれません。相変わらず嫌なことがあって、おもろいことがあって、その繰り返し。。。でも、ここで気づいて欲しいことがあります。

覚醒とか意味わからん幸福感って、そもそも「価値」を付与しない先にたまたまありましたよね。自分だけが存在しているところに偶然、存在していましたよね。

つまり、「自分だけが中心にそのまま在ることで世界が微妙に成立している。」この強烈でゆるぎない事実こそがぼくらがぼくら足るゆえんなのかもしれません。

そして、だからといって、ぼくらは完璧に「神」であることは事実なのに、自分でやりたいようにコントロールして無双状態になれないところがぼくらのとても面白いところだったりはします。

なんともファジーな内容になりましたね(笑)

読んでいただきいつもありがとうございます!

 

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