まめたろう(僕)
たっかぶり(妻)
※この記事は、スピリチュアルで言われる「学び」をテーマに、辛いことが続く人生と連結させがちな悟りなんかにも触れていく内容になります。辛いのは学ぶことが多いからだと何かから逃げていませんか?時には逃げまくるのもいいですよね。
それ、学びですよ。人生学びですのお。こんな文脈、一度は耳にしたことありませんか?この学びって言葉のもつ破壊力&おさまり感、けっこう威力強めですよね(笑)
例外なく、すべてもちろん学びなんですが、スピリチュアルにおいて、おそらく人の好みにはなりますが、ぼくらは誤解しがちなのかもしれません。そしてよく出てくるこの不幸な人生とスピリチュアル。このあたりも今回は少し掘り下げてみましょう。
まあ、結構トラップですよね。苦笑
学びや悟りとは?不幸からスピリチュアルを求めるトラップ
みなさんにとって、「学び」、そして悟りはなんでしょうか?ただ在るとか無に帰すとか、表現は様々ですよね。
ぼくはスピリチュアルや精神世界への入り口がいわゆるキラキラの悟りとか、魂を成長させちゃうとかそういう文脈ではなかったので、正直なぜ、スピリチュアルをある意味「神格化」しすぎている人もいるのかあんまりわからない部分もあります。
学び=魂を磨くこと?
ぼくもそれ、学びですね。なんて表現をするときがありますが、全然シリアスな意味合いで使ってはいないんです。それっぽく表現すれば、学びは魂を磨くこと、成長させることと相違ないんですが、けっこう誤解が生まれていると感じています。
そもそもぼくら1人1人の本質っぽい魂ってめっちゃ成熟しているので(笑)だから、あくまで本質っぽい魂に自分を近づけていくようなイメージです。
そういう意味で言えば、学び=魂を磨く側面と気付きの側面もあるかもしれません。
学びにおける解釈論
学びってみなさんどんな感覚で捉えていますか?
ぼくの中ではけっこうシンプルで、「おもろいなあ。」とか、「いろんな考えがあるなあ。」を増やすことに繋がっている感じがします。もちろん、ぼくらが成長する過程で、例えば、ハイハイからつかまり立ちを覚える。つまり出来ないことが出来るようになる。
わからないことがわかるようになる。そんなことも学びにはなりますよね。
好みは人それぞれで解釈もまったく異なって良いのですが、注意しておきたいのは、スピリチュアルな話になると、全部一気に神格化することだと思います。極論を取るというんですかね。幸福論を見出すと言ってもいいです。
学びを増やすことで、自分の境遇やある事象、状況、環境から学ぶことでブッダみたく悟れちゃう。っていう誤解がけっこう多い気がしています。
ぼくら、かなり優秀なんで悟ろうとおもえばいつでも悟れちゃうんで大丈夫です(笑)むしろすでに悟っているんで。
それよりも、ぼくにとっての学びはドラクエでいう経験値を増やす感覚に似ています。だから、学ばなければいけないような義務ではないし、すべては学びに繋がると感じなければいけない宿題や課題でもないです。
そう思えたらそう思えばいいだけですね。
不幸からみる悟り
苦しい状態、不幸からみると悟りはけっこうすげえ。って思うらしいです。これはペドロさんが教えてくれました。
「僕が悟りを求めた理由も苦しみからで、もっと言えばスピ系ブログや本で普通の人が悟りを開いてるっぽい感じを出していたからなんですね。」とペドロさんはおっしゃっていました。
確かに、スピ系ブログや啓発系の本はなんというかめっちゃキラキラしています。
スピリチュアル系のただ在るとか、引き寄せの法則とかアセンションを使って、幸せになりたい。もう不幸な人生を終わらせたい。と思うのはもちろん自由です。ただ、美化したり神格化、イメージを強くもちすぎるともしかしたら「毒」になるかもしれません。
悟りを例えば、悟ればなんでも思い通りになる、魔法が使える。釈迦みたいに伝説残せるわ。という文脈で捉えて思い込みが強すぎると、もしそうならなかったときの反動が半端ないでしょうね。
ぼく自身は、精神世界やスピリチュアルの面白さをそこだけに見いだしてはいないので、何とも言えないところはありますが、確かにサクセスストーリーとか見たら、イチコロやな。って感じがしています(笑)
悟りについては、以下の関連記事で詳しく書いています。
人生で不幸が続くのはスピリチュアルな学びや修行があるから?
生きていればめちゃくちゃ色々なことがあります。そしてぼくら1人1人が生まれた環境も違えば、育ってきた状況もまったく違います。
今回の記事で一番言いたかったのは、これからお伝えすることです。スピリチュアルな学びや修行は辛くて苦しいモノだ。人生が辛いのは乗り越えられる試練を与えているからだ的なマインドについてです。
不幸な人生は学びのチャンス?
ぼくの考えでは、不幸な境遇や、苦しい状況は学びでもなんでもないです。まあ、そういう部分もあるとはもちろん思います。だからといって、自分の成長に結び付けたり、根本探しに疲弊して精神世界に求めるのはちょっとリスキーな部分もあるのかなと感じています。
だって、もしそれで解決されない、つまり不幸な人生が不幸のままと思っていたら、それめっちゃ重いエネルギーに変わりませんかね?
例えば、とても極論ですが、戦争で親族や近しい人が亡くなって、それ学びだから、成長するチャンスです。とか言われても、え?ってなりませんかね。
まずはそういう悲しみや傷を癒してから、学び視点を持ち出すのが健全だと思いますよ。
楽な人生にも学びはあります
これは、以前にも記事にしましたが、もう一度だけ言っておきます。ぼくらスポ根魂がめっちゃ染み付いているため、辛い経験や体験、苦しいことを越えなければ成長できないと勘違いしまくっています。
スピリチュアルなキラキラとかワクワクはそこだけ(苦しいこと)にフォーカスしているとめっちゃキツイです。世の中のこと、それ全部学びだから。はもちろん間違いないんですけど、無理矢理、今きついのは、人生が不幸なのは魂が試練を乗り越えられるからだ。とか、
自分でキツイ試練を課すため設定してきたとかそこに落とし込む必要はまったくないんです。そういうのを学びと思えるところまで、まずは癒えてから、そういう視点もあるかもな~と少しずつでいいので感じていくのがぼくがおもうスピリチュアルっぽい学びや気付き、
そして悟りっぽい感覚になるのかなと感じています。
このあたりは、魂レベルうんぬんの話で以下の関連記事で詳細に書いています。
スピリチュアルにおける学びや悟りをどう捉えるか?
基本的には、みなさんが学びや悟りをどう捉えて、どう落とし込んで、自分の人生にどう活かすかはめちゃくちゃ自由です。先ほどもお伝えしましたが、ぼくのイメージではこの学びや悟りはけっこうシンプルなのでもう少しわかりやすく、共有していきますね。
①視野が広くなるorなくなる
一番はこれでしょうね。
スピリチュアルなことを学んでいくと、サイキック能力とか、高次の存在とか宇宙とのコンタクトとか見えない世界に憧れ、敬意、羨望を抱くひとがもしかしたら多いかもしれませんが、ぼくにとってのスピリチュアルやそれに伴う学びは、そんなに複雑じゃないです。
世の中って、基本的なルールや規則があって、良い悪いで判断しますよね。ぼくは昔からですが、こうしなければとかやらなきゃとかすべきとかって言葉がしっくりきていなくて、スピリチュアルってそういう判断を求められないところにおもろさがあるなあ。
としみじみ感じています。いわゆる絶対悪とか絶対善ってあくまでどの立場に立つかに寄るだけのことが多くないですかね。
②とりあえず人間おもろい
スピリチュアルな学びや悟りと通じるかはわかりませんが、人間ってめちゃくちゃ面白くないですかね(笑)それっぽい表現するなら、三次元の世界でもいいです。
いろんなリアクションみられるし、いろんな発見があるし、いろんな波動があるし、エネルギーがあるし。ぼくの勝手な妄想ですが、高次っぽいところにいくと、全部愛やで。ただ在るで。ってド正論なんですけど、その感覚だけだとさすがに飽きませんか?(笑)
いろんな思惑があって、いろんな正義があって、いろんな悪があって、いろんな形の不幸があって、いろんな形の幸福があります。それってスピリチュアルな世界を通すとけっこう面白い感覚がぼくにはあります。
人間って本当におもろいですよね、まあぼくも自分で自分のことおもろい反応するわあってたまに思います(笑)
③よりシンプルに。素直に。
スピリチュアルな発見や学びがあると、突き詰めると、それはすべて自分に行きつきます。今ある環境や状況、それこそもう全部です。まあ、これは好みなので絶対そうです。ってわけじゃないですよ。あくまでぼくはそう感じているだけです。
絶対は絶対にはないと思っているので。
やっぱり日々の自分が自分をつくっていて、その他付随するものもすべて自分だなあ。とやんわり感じます。なので、自分のハートや心と会話して、好きなモノは好きだし、嫌いなモノは嫌いだし。より自分に誠実に還れる感覚があります。
ザ・シンプルライフですね。
少し、学びや悟りと離れるところもありましたが、やっぱりスピリチュアルなことは別に雲の上の存在とかそういうんじゃなくて、散歩していたときに今までは気が付かなった、道端に生えている雑草にもちょこっと目を向けたり、
もしあんまりうまくいかないことがあっても、それを誰かのせいじゃなくて自分の内をみることに繋がったり、ほんとうに少しだけ誠実で素直な自分に戻れるきっかけというかヒントがたくさんあるような気がしています。
みなさんは学びや悟りをどう捉えていますか?
まとめ:スピリチュアルな学びや修行、悟りは求めるものではないかも
今回は、辛い人生や苦しい視点からみる学びってけっこうしんどくないですか?というお話でした。世の中のことは、すべて中立でフラットって考えもぼくはこれ本当にそうだと感じていますが、実際にしんどいって思っていたらそんなこと言われても・・・。
ってなるのはけっこう当然ですよね。まあ、人間は不幸にも幸せにも慣れていく生き物ですので常に一定でいることなんて限りなく不可能に近いですからね。
あと、そもそも論になりますが、ぼくらの先導者、先駆者っぽい釈迦もイエスも悟りを求めて、救いを求めて、苦行に耐えたとか、人々を救いに導いたとかたぶん、そんな意識していないんじゃないかなってぼくは感じています。
よくわからんけど、シンプルに自分の心の声に従ってたら、カリスマっぽくされちゃったわ。そんなイメージが近いんじゃないんですかね。知らんですがね。
聖☆おにいさんって漫画で描写される、ブッダとイエスくらいゆるーーいライフを立川あたりで送っていたんじゃないかな。って感じています(笑)
みなさんはどう思っているでしょうか?いつも読んでいただきありがとうございます。
まめたろうさん、こんにちは。
何回かコメントしてると、コメントすることへの緊張みたいなものがなくなってきました。これ、私にとっては学びです。
私の思う学びは、こだわりがなくなっていって、生きやすくなることですから。今のところ。
そして私にとっての悟りへのきっかけはペドロさんと同じです。
今は宇宙人とかハイアーセルフとか波動が実感として分かる人になりたいという願望へすり替わってきてますが。
まだまだ覚大入学したばっかり感が自分でも否めません。
さらっと、結局は全て今なんだな、とか言ってみたいです。
私にとっての学びや悟りに近い感覚は気づきかなと思います スピリチュアルな世界への気づき、全てのものにエネルギーがある事、自分にもその力がある事、知らなかった事を知る事はどんな小さなことでも大きな意味がある事、知りたいと思う気持ちに幸せのヒントがある事
自分の気持ちに正直になること、それがネガティブな感情であっても認めること、豊かになる事
私としたら最終そこになんらかの面白がりがある事
悟りや学びがポジティブな場所にあってもいいんじゃないかな
そうじゃないと幸せが怖くなるから
どんどん悟って面白がっていきたいです
知らなかったことの答えが
この場所には結構あります笑
あいおさん、
コメントありがとうございます!
知らなかったことの答えがあるかはわかりませんが、楽しくこれからも書いていきたいと思います(笑)
コメントありがとうございます!
こだわりがなくなるってのは面白いですよね~。
ぼくもまだまだなところで勉強中です!