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ありのまま受け入れるマインドフルネスとジャッジする生き方を比較してみた

「ありのままVSジャッジメント」になります。

まめたろう(僕)

たっかぶり(妻)

みんながそれぞれ現実を持っているってこと。

※この記事は、スピリチュアルでよく言われるありのままを受け入れる生き方(マインドフルネス)とジャッジする生き方を比較して、これらをどう捉えるかについてぼくなりの考えを共有する内容になります。

ありのままを受け入れたら幸せになった。ジャッジを手放したら楽になった。こんなセリフ一度は聞いたことあるのではないでしょうか?

確かに、マインドフルっぽい在り方はド正論で、そちらの方がめちゃくちゃ楽なのですが、ジャッジしちゃうマインドもぼくはけっこう人間っぽくて好きなんですよね。個人的に、ジャッジすることが悪いとは微塵も思ってはいないです。

どちらの生き方が正しいということではなく、どちらの自分がよりおもろいかでバランスよくなっていくことをわりとおすすめします。

今回のポイント

  • 全てありのままを受け入れるマインドフルネスとは?
  • ジャッジする自分の根本に根付くもの
  • マインドフルネスとジャッジメントはどっちが良いの?
  • 幸福度&自由度はどこからくるのか?

全てありのままを受け入れるマインドフルネスとは?

ジャッジメントの反対は、「ありのままを受け入れる」ですね。ありのままを受け入れるといえば、イメージしやすいマインドフルネスなので、まずはここをみていきましょう。

マインドフルネスの定義

マインドフルネスとは、思考・感情・体の感覚を完全に認識し、今この瞬間に意識をおくことで達する精神状態と定義されています

もう少し、ほぐして言えば、「今、この瞬間を大切にする生き方」「評価や価値判断をせず、ありのままを受け入れる状態」ですかね。スピリチュアル系でおなじみの今ここに在り続けること。ですね。

動物とか赤ちゃんが得意なイマココです。

マインドフルネスのルーツ

マインドフルネスの歴史は古く、3000年以上前と言われています。仏教の重要な教え「中道」の具体的内容に八正道があるんですが、その1つがマインドフルネスです。

そして、近年では、約50年ほど前にマサチューセッツ大学医学大学院教授のジョン・カバット・ジンというおじさまが医療的ケアのアプローチから、このマインドフルネスを取り入れたことで一躍注目されるようになった在り方です。

マインドフルネスっぽい状態を掴む手段の1つとして、「マインドフルネス瞑想」がめちゃくちゃ流行っていますね。グーグルやアップルなどの大企業がやっているで。というブームに乗っかった個人や企業は多いはずです。

今ここでありのままを受け入れる生き方

今ここでありのままを受け入れる生き方はけっこう極論ですが、ぼくなりに解釈すると、決めつけを薄める。そしてエゴを薄めていく生き方に通じるものがあります。

善と悪と二極に何事ももってくるのではなく、ただそういう在り方、生き方、感じ方があるのだなあ。と「認識」していくイメージです。

マインドフルネス瞑想はその認識の幅を今ここに集約、あるいは認識を最大限にまで広めるツールの1つです。

もちろん、瞑想でなくても、マインドフルネス散歩とかマインドフルネス読書とか、マインドフルネス恋愛とかでできる人もいるんでしょうね。

たぶん、みなさんそれぞれ無理をしなくてもそういう識別、見分けはしているのですが、そこに社会的価値観、親や大人の教え、エゴが入ってくると苦手になってくる人が多いのかもしれません。

それがジャッジメントに繋がっていきそうですね。

マインドフルネスとは
  • 今この瞬間に意識をおくこと
  • 違いを(善悪で)判断せず、認識すること
  • ありのままを感じる、受けること
  • ただそういうモノ

「ジャッジメント」とは何か?ジャッジする根本にあるもの

ジャッジするを日本語にすると、判断する、価値づけをする。になります。ここからはジャッジメントとは何が根本にあり、どこが不健全になりうるのかをみていきましょう。

ジャッジメントとは?

ジャッジメントの意味は、価値判断、審判とかそういう意味になりますが、主にスピリチュアルっぽい文脈で使われるときは、

自分の価値観で物事を決めつけ善悪や優劣を判断する行為」を指すとぼくは思います。

マインドフルネスの今ここ的な文脈からみると、ジャッジメントは、善悪や優劣はもちろん、物事に対する理由、原因、特定の結果に関する判断を下すことまで厳格に指摘できそうな勢いになります。

ジャッジメントとは
  • 自分の価値観をベースに→
  • 物事を決めつけ→
  • 物事に優劣や善悪を付与すること
  • ※理由、原因、結果なども含む可能性アリ

ジャッジメントの根本は?

判断する、価値判断する行為の根本にあるのは、自分を比較優位で守ろうとするエゴですね。防衛本能に近いモノです。

何から一体自分を守ろうとするのかと言えば、それは家族でいえば、親、兄弟姉妹、親戚、職場で言えば、同僚上司部下、コミュニティでいえば、そこに属しているだれか。

そしていわゆる「社会常識」や「一般論」など「マジョリティっぽい価値観」になります。

ジャッジするメリットデメリット

ジャッジというやつが何者かわかったところで、それぞれメリット・デメリットをみていきます。言わずもがな、敢えてどちらかに分けるとすれば・・。という程度です。

ジャッジメントのメリット

ジャッジメントのメリットはいくつかあります。

ジャッジのいいところ
  1. (人によっては)自尊心・プライドが保てる
  2. 精神的な対処療法になり得る
  3. 自分ではなく他人に押し付けられる
  4. (人によっては)心のバランスを保てる

ジャッジするメリットですが、結局人それぞれ性質が違うので一概に言えないのはもちろんです。ただ、比べて優劣をつけることで、自尊心を保てたり、心のバランスがよくなる人だっています。

短期的にみたら、心の対処療法になるので、復活する手段の1つとしては活用できそうですよね。ただ、永遠不変なモノがないかつ「一般論」は『幻想』なので、ゆくゆくは薄めていく方向にシフトした方ががめちゃくちゃ楽だと思います。

比較競争社会からドロンする前に・・というイメージです。

ジャッジメントのデメリット

ジャッジメントのデメリットはやっぱり、比較競争に疲れちゃうことですね。果てがないですからね。

ジャッジの微妙なところ
  • ラベルをペタペタ貼る(自分にも他人にも)
  • 自分の価値が(他に)左右されまくる
  • 考え方が狭まる
  • 想像力が欠如する

自分の価値判断基準のベースが「他」にあるので、自分にもラベルを貼るし、相手にもラベル付けします。そうなると考え方は狭まり、大を善と捉え、小を悪とみなします。想像力は欠けていき、思考がとまっちゃうんでしょうね。

自分で自分を責める人もたくさんいると思います。

やっぱり長期的にみると、ジャッジメントがあるとけっこうなデメリットはありそうです。まあ気付かずに一生を終えて、それが楽ならそれでいいんだと思っていて、どっちが楽かは究極的にはその人次第なんだと思いますよ。

ありのままを受け入れる?ジャッジする?どっちがいいの?

ジャッジする生き方とありのままを受け入れるマインドフルネスっぽい生き方でどちらが良いということは究極的に言ってしまえばないんですが、どちらが向いていそうかをぼくなりのイメージで共有していきます。

今の自分と照らし合わせて参考にできる部分は拾ってみてください。

マインドフルネスっぽい感じをもっていいかも?

ありのままを受け入れるマインドフルネスっぽい感じは無理して、頑張ってなるようなもんではないとぼくの経験の何かは言っています。

キーポイントは自然にそうなっていく方向にシフトしやすい人なんだと思います。

マインドフルでいきましょう
  • 自分がわりと好きな人
  • エゴとそうじゃない自分を切り分けられる人
  • 判断と識別の違いが分かる人
  • 思考と感覚の違いを認識している人
  • 人の外側より内側に意識をもっていける人
  • エゴが強すぎない人
  • 自分と他人の世界観を壊しすぎない人

敢えて言葉にするとこんな感じです。

もちろん、日々で上下はありますが、自分が自分の世界では「神」であり、それと同等レベルに他人も他人の世界では「神」なんだよね。ってことが腑に落ちている状態は何事もマインドフルっぽい方向にシフトしていきたいところですね。

マインドフルっぽくてもOK

みんな違ってみんないい。みんな違ってみんな神。

ジャッジする生き方がいいかも?

ジャッジする生き方におんぶにだっこしていても良い時はもちろんあります。人間だもの。ですね。

キーポイントは無理矢理頑張ってジャッジメントをなくさないことです。

ジャッジしちゃう?
  • 自分が嫌いすぎる人
  • 比較することで復活できる人
  • あくまで「対処療法」として捉えられる人
  • ジャッジが「楽」と考えられる人
  • 競争社会が好きな人

ジャッジをおすすめできる人って正直あまりいないんですが、あくまでそうすることで一時的でもいいから自分が楽になれるのであればそうした方がいいです。

ジャッジすることがダメやで!ってことすらもうスピリチュアルっぽい世界では『判断』になっちゃうので。

自己肯定感、サクセスストーリーがなさすぎる人、自分が嫌いすぎる人がジャッジすると、無限ループに陥るリスクは示唆しておきます。

ジャッジしてもOK

「ジャッジ」を一時的でもなんでもうまく利用できる人に限る。

マインドフルネスVSジャッジ:自由度の幅が幸福を決めるかもしれない件

せっかくなので、全てをありのまま受ける姿勢とジャッジの姿勢でなぜ、長期的にみればマインドフルっぽい感覚の方が、幸福度高めになるのかをほのめかしておきます。

①「現実」「一般」はあるようでないから

第一条件はこの「社会的価値観」の移ろいやすさ。にあると思います。

比較競争ゲームに一度ベットすると、それが良いとか悪いではなく、いわゆる社会的に見て『勝ち組』でないと、一生満足は得られない可能性が極めて高そうです。

嫉妬しまくりゲームに強制参加している状態です。ただ、この「社会的価値観」はぼくらの集合的意識がいわば作っている幻想で、そんなものは1つもなかったりします。

「何を満たせば」社会的にアウトで、「何を満たせば」社会的にセーフなのかが究極ないんですよね。世間は決して常にノーマルなんかじゃなくてアブノーマルってことですかね。

②比較競争ゲームには『正解』がないから

次に挙げられる理由は、このジャッジメントをベースにした比較競争ゲームには正解&終わりがないところです。

何事においても、自分で正解を決めているはずなのに、その審判が「他」や「社会一般」だとしたら、クリアがないんでしょうね。それこそ無限に基準点が登場しちゃいますから。

③ピュアな自分を忘れてしまうから

ジャッジメントの弊害の1つは、善悪を決めつける、優劣をハッキリさせることで、そのベースに来るモノが自分ではない何かに取って代わるところです。

これがやっかいで知らず知らずのうちに、自分は(あるはずもない)『基準点』をクリアしていないからダメ。自分は(あるべき)『基準点』をクリアしているからOKみたいな。

本当の自分の声ってなんなんだ。ってなっちゃうのがジャッジメントの見えない破壊力なのかもしれません。

自由のバリエーションを再定義

長期スパンで考えると、マインドフルネス>ジャッジするになる理由をまとめると以下の3つが主ですかね。

捨てちゃえば?
  • 『一般常識』は幻想だから
  • 比較競争ゲームの攻略本がないから
  • 純粋な自分を忘却しちゃうから

まあ、あくまでジャッジすることがダメってことではもちろんなくて、だらけていったほうが楽やでというお話です。

自分が高熱になっていたとして、マインドフルネスはゆっくり寝てひたすら休む回復方法だとしたら、ジャッジすることは解熱剤みたいなもんなのかなというイメージがあります。苦しすぎたら解熱剤投入するのはめちゃくちゃアリですね。

まとめ:マインドフルネスを保つのもジャッジするのも要相談

スピリチュアルっぽい考え方の1つで、ぼくがめちゃくちゃ好きなのは、自分が自分の世界では神で、それと同じくらい個人個人がオリジナル世界観をもつというコンセプトです。

ジャッジはそれ自体が良いとか悪いとかはないんですが、そのみんな違ってみんないい。を圧倒的かつ破滅的に壊す破壊力がありそうですよね。

もちろんそれで救われる人もいて、それが心地いい状況もたくさんいるんでしょうけどね。

ここまで偉そうに書き連ねてきたぼく自身は、まだまだ半人前なので、エゴフリーかつノージャッジなんて人間ではまったくないです。

それでもなんとなくみんな特別っちゃあ特別だなあという感覚はたぶんですがある気がしていて、すごく共感できる気分ですね。

みなさんは日々どんな価値観のもと、どんなゲームにベットしているでしょうか?

質問や意見があればぜひコメントやSNSまで。いつも読んでくださってありがとうございます。

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