今回のテーマは「自立と依存」です。
お前を利用してやろう。
※この記事は、自立や依存をテーマに、「頼りにする」と「あてにする」違いでぼくが勝手に思っているところを共有していく内容になります。
人は1人でも究極的には生きていけるんですが、「自立」を履き違えるとけっこうしんどくなるかもしれませんね。
人間として人間関係を築きながら生きているぼくらですので、他人と関わりまくっています。
そんな中、他人を「頼りにする」「あてにする」ってなんとなくニュアンスが違う感じがしませんか?
辞書的な意味合いとぼくが勝手に感じているところなどを共有しつつ、スピリチュアル的な視点から頼りにするとあてにするの波動やエネルギーを文字にしてみます。
人から頼られ過ぎるとそれはぼくのイメージするところの重い優しさやエネルギー交換をしているかもしれません。
他人を「頼りにする」と「あてにする」の違いは?
辞書的な意味合いの「頼りにする」・「あてにする」の違いをみつつ、なんとなくぼくがニュアンス的に使っているところを共有していきます。
①辞書的な意味合いの違い
まず、シンプルな方、「当てにする」から見ていきます。
あてにする(当て)にする意味とは?
あてにするは、2つの意味があるようです。
- 物事を行ううえでの見込み。目当て。目標。
- 頼りにすること。頼み。期待。 旺文社辞典より。
まあ、簡単にいえば、「利益」や「利害」を目的として使われる頼るですね。
頼りにするの意味とは?
一方で頼りにする。という言葉は、助詞の使い方で意味合いが異なってくるようです。
主には3つに分かれます。
- 依存する。→この場合は、「Aに頼る」
- ①の依存よりも低い度合いで依存する。→この場合は、「Aを頼りにする」
- 世話を受けに行く。援助をもらって行動する。→この場合は、「Aを頼る」
つまり、「○○に頼る」「○○を頼りにする」「○○を頼る」でぼくらは無意識に使い分けをしているようです。とりわけ③は、行動あるいは移動行為を伴う頼るという意味合いで使われるようですね。
簡単に整理すると、
『当てにする=①の「Aに頼る」>Aを頼りにする』(依存度のニュアンスの違い)
『Aを頼る(医者を頼って、友達を頼って○○へ行くとか)』(移動行為を伴う)にわかれるようです。
Yahoo知恵袋では、当てにすると頼りにするの違いは、ちなみに、人に対して使うか、モノに対して使うかと言っていました。
前者がモノに対して、後者が人に対してという説明が多かったんですが、ぼくはわりと本を読むので、○○くんをあてにして、という表現はよくみかけます。
②言葉のエネルギー(波動)的な違い
言葉のエネルギー的違い&ぼくの理解では、当てにすると頼りにするはけっこう違います。
あてにするのエネルギーは重いかも?
「あてにする」は、ちょっと人間的にいやらしい、利益や損得勘定を含む表現であり、重い言葉のエネルギーを感じます。自分ではなにもしないで、あらかじめ自己放棄したうえでの他者依存。そんなイメージです。
頼りにするのエネルギーは少し軽め?
こちらも、もちろん、使われ方にもよるんですが、ぼくは自分で精いっぱいやったけどなんもならんやったから頼りにしてもよいかね?的に自分を中心に据えた上での他人の意見や技量やアイディアを借りる。そんなイメージを感じています。
同じ言葉でも、同じ意識でもそこのテーマは自立と依存になってくると感じています。前者は頼りにするちょっと軽めのイメージで、後者は少し重いこすいイメージです。
みなさんはどう感じているでしょうか?
自立と依存は人間関係でどう働くのか?
今回のテーマの重きは頼りにする。ですので、自立とはなにか?依存とはなにか?ということは少し隅においておきます。また、ここでいう自立or依存は、経済的うんぬんよりも精神的な意味合いの方が大きいと思っておいてください。
依存を前提にした人間関係は辛いかも
ぼくは、依存し合った人間関係は重くてしんどいと感じています。そして、これは「あてにする」人間関係になっていくイメージがとてもあります。まあ、遅かれ早かれぼくはそういう人間関係を築いた場合、プツンと切れちゃいます。
相手にとって心地いい自分を演じる。自分にとって心地いい相手の側面を切り取る。そうすることでしか、信頼関係が築けないからですね。依存していた場合は、他人もですが、主には自分をあまり信じられていない感情や感覚が強すぎるときに多くありそうですね。
ぼくは地方出身でいまは田舎に住んでいるのでよくわかりますが、田舎のスクールカーストってオトナになっても続きませんか?イケてるグループとイケてないグループみたいな構造を大人が適用させて、公務員なら勝ち組みたいな。
要するに外的要素(職業や肩書、結婚しているかどうかも含む)を重視しながら、独自ルールで人付き合いをしていくような感じです。
家族においては、利害、嫉妬、役割、そういった「暗黙のルール」をかなりの文脈で重視していくのかもしれません。まあ、ぼくがそう感じているだけで、色々な側面はもちろんあるとは思いますよ。
自立を前提にした人間関係は楽かも
一方で、自立を前提にした人間関係は、ぼくはめっちゃ楽だなと感じています。こちらは、本当に必要であれば「頼りにする」という人間関係に自然となっていくのではないでしょうか。
心を開けっぴろげにして、ノーガードで相手と話したり、相手の嫌な部分、こすい部分も見えたうえで付き合えるので、自然体でいられます。これは、家族に関しても、友人に関してもいえることでしょう。
ぼくは何が自立で何が自立でないかはよくわかりませんが、少なくとも見えない部分、精神面でいえば、自分の心に従っているとか、自分の軸をもっているとかそういう部分になりそうですね。
だから、相手がどういう肩書でどういう役職で、どういう生い立ちだったのかというのはたいして重要ではなくて、信頼足るかどうかみたいな部分により焦点が自然とあってくるのではないでしょうか?
スピリチュアル的なことに言及すれば、マインドよりもハートで付き合うひとは本音を出しやすいし、あてにされる・するの関係にはならなそうですね。
頼りにされるのは嬉しいけどあてにされるのはうっとおしいかも
これは、あくまでぼくの感覚ですが、互いに認め合っている意味合いでの頼りにされるのはけっこう嬉しいというか不快な感じはしませんが、ちょこっとこすい意味合いでたいして仲良くもないのにあてにされるのは必要ないような気がしています。
たいして、仲良くもないのにとかはちょっと毒舌ですけどね笑
あてにされても心から応援できない?
利害関係や、損得勘定で人間関係、家族・パートナー関係で依存しあって、仮にあてにされる立場だったら、心から応援できない自分に会う人が多いのではないでしょうか。
行きつく先は、利用する・利用されるの関係になりそうです。友人関係であれば、それを切っちゃうのは簡単ですが、家族だと、(親は敬えてきな意味合いから)それが難しいこともありますね。
深くは言及しませんが、あー、この人肩書とかお金でしか人付き合いできないんだなって言う人はわりとマイノリティではなさそうですね。
頼りにされると信頼できる?
一方で、自立を軸に成り立った関係は、嬉しく感じるときもあります。少なくとも悪い意味で、嫌だなあ。と感じるときは少ないかもしれませんね。
ぼくらがじゃっかん誤解しがちなのは、例えば、Aという疑問に、1-10まで答えることが優しさであり、信頼と思っている節があるところかもしれません。
ぼくの体験的にいえば、ヒーリングセッションの難しさだと感じているんですが、例えば、それ自分で気が付いたほうが(長期的にもエネルギー的にも)いいで。というところまで、みえているけど言うか言わないか的なところになります。
人間関係で悩んでいる方の原因がBだとして、AとCにひっかかりがあるからBになって解決するにはDとEがあり、Fの部分で苦労するかもしれないけど、Gすればいいで。と手取り足取りするのが信頼なのか。自立っぽい関係なのかと言われれば、ぼくはそうでないと感じています。
これは、まあ、好みだし、人それぞれ価値観に大きくよるところだとは思います。
まとめ:頼りにするのもあてにするのもハートと自立を意識したらいいかも
今回は頼りにするをテーマに少しだけ思うところをシェアしてみました。
人間と人間のかかわりって色々な意味で複雑に交差しているように思えるんですが、ぼくはそんなに複雑にはとらえていません。もっとシンプルにハートの部分、自分の本音を出しながら、交友していきたいとおもえる相手に出会えるのが一番楽です。
そういう文脈からすると、それは人をあてにするという発想や意識は生まれず、足りない部分を無意識的に、そうしたいから補っていけるような軽い人間関係になっていくイメージがぼくにはあります。
まあ、あんまりこういうこと考えて、理屈っぽく話しているとたぶん女の子からはモテませんし、豪快なムッシュやマダムからは毛嫌いされそうですけどね笑 もっと動物的で本能的であっていい部分だともおもいます。
みなさんは、人を頼るときどんなことを意識しているでしょうか?
いつも読んでくださってありがとうございます!
いつも楽しく読ませていただいてます。
今回、職場の人に感じている違和感みたいなものがぜーんぶ書いてあって、なんだかスッキリしました。笑
この気持ちを伝えたくて、はじめてコメントしてみました!
ありがとうございます!
ちるさん
コメントありがとうございます!
おお、スッキリさせられてよかったです笑
こちらこそ、ありがとうございます!