ヒーリング基礎講座開催11月20日~

自分の人生に責任を取る方がいいの?責任の再定義をしてみるといいかも

まめたろう
まめたろう

今回のテーマは「ザ・責任」です。

たっかぶり
たっかぶり

すべて○○のせいです!

※この記事は、「責任」の取り扱いについて、ぼくなりの自分勝手な持論を持ち出す内容になります。

今、自分にある環境、境遇、すべて自分のせいである!と受け入れたら辛いけど、早めに楽になるで!という意見、そして反対に、誰かのせいにしたり、責任転嫁をしたりしてもいいでという意見もあります。

スピリチュアルっぽい考えでは、前者を取る意見が多いようです。つまり一旦すべて自分に引き受けて、自分の人生を舵取りしようで。というコンセプトですね。

結論からいうと、ぼくの率直な意見としては、好き好きで「都合が良いように」解釈していこう。ですかね。責任の認識を変えていこうとも言えます。
そもそも責任なんていうものは幻想だ。という説もありますし。

人間いろいろな人がいるのと一緒でこの責任の取り扱い方もワンパターンではなさそうです。今回はそのあたりをやんやしていきます。みなさんは責任についてどう思いますか?

今回お伝えしたいこと
  • 責任の考え方
  • 責任をとった方がよさそうな人
  • 責任をとらなくてもよさそうな人
  • 責任を使って、自分に舵を持って来ましょう。

責任とはなにか?

まずは、ちゃんと責任の意味合いをはっきりさせておきたいです。

責任の意味

「責任」には大きく分けて2つの意味があります。

責任とは?

① 立場上当然負わなければならない任務や義務 。

② 自分のした事の結果について責めを負うこと。

日本語で責任といえば、おそらく①がめちゃくちゃ強くなります。いわゆる義務的な責任ですね。

責任の起源

一方で、②については、英語でいうところのresponsibility、ラテン語のレスポンデレです。

ローマ時代に法廷で自らの行為を弁明する、応答する(応える)、約束するという意味合いで使われていたことに由来します。

そこから少しキリスト教っぽい神の概念を入れて、解釈すると、(神から与えらえた課題や要求に)自らの意志で応じること、答えることのできる能力のことを言います。

哲学的な解釈を織り交ぜて、自分の意志を反映した自由な行為言動と言ってもいいでしょう。

イメージしやすいところだと、自分が船長で、海を航海するとして、「責任」はその船を守ることでも、乗組員をどこかに届けることでもなく、

(もっと”初歩的な”)右に舵を取るのか、左に舵を取るのか、アクセルガンガンでいくのかを決めることですね。

だから、しばしば、この「責任」は「自由」と議論がなされるのですがこれは長くなるのでやめておきます。

責任とは・・?
  1. 義務や任務
  2. 自らの自由意志で応じること、答えることのできる能力
  3. 意志を反映した自由な行為や言動

そもそも責任は取るモノでもないかも?

「責任」が応じること、答える能力や自由な行為とするならば、そもそも責任という言葉の捉え方がぼくら日本人はニガテですかね。

「人生に責任を取る」となると、要するに自分で能動的な選択していこうで。という感覚だったり、自分の意志くらい自分ではっきりさせましょうなんて意味合いになっていくイメージがあります。

が、しかし、自分で選択していない人、あるいは自分の意志を明示していない人はぼくの世界ではみたことが正直ありません笑

とにもかくにも、責任を負う、取る=自分で決めていく意味合いでここからは話をちょっぴり前進させていきます。

自分の人生に責任をとる生き方をおすすめするとき

責任取るで!と決めた方がいいときを考えてみましょう。どちらでも良いことは大前提として、要するにバランスだと感じます。

①自分の人生諦めモード

全部諦めちゃっているときは、ちょっと誰が船の船長さんか思い出した方がいいんでしょうね。

言葉を言い換えて表現するのであれば、誰かのせいにしすぎているときです。こんなときは、結局乗っている船のスペックを誰かと比べたり、自分が船長さんと気が付けないときがほとんどだからです。

スピリチュアルっぽい言葉でいうところの他人軸ってやつですね。

②落ち込みすぎていないとき

自分の中にまだ、悔しいとかもどかしい、歯がゆい、怒りなどの感情があるときは、全然大丈夫です。(とぼくは勝手に思っています。)

本当に投げやりになっているとき、自分が船にのっていることすらわかりませんからね。

あと、責任をとるって、なんか立ち向かったり、たたかうイメージが強いですが、ぼくはそんなことないと感じていて、にげるのも能動的選択の結果であればよしだと思いますよ。

繰り返しにはなりますが、責任は自らの自由意志で応じることですので。

責任取るで!というとき・・

基本的には責任をとった方がいいときというのは、投げやりモードで指針も舵も全部手元にないと錯覚しているときだとぼくは思います。

ちゃんと自分の人生やで!と思い出してあげるところがポイントですかね。

責任を思い出すとき
  • 人生を諦めすぎ
  • ちょっと心にゆとりがあるとき
  • 自分の軸確認

自分の人生に責任をとらなくてもいいときも?

一方で、他人のせいに、何かのせいにしたほうが効率いいときもぼくはめちゃくちゃあると思います。

そして人間、千差万別ですので、とりわけ罪悪感の塊みたいな人が自分のせいです!とスパルタモードになると、無限義務ループになると感じます。

①生まれつきの環境・クセなど

なにも自分がしていないのに、何かや誰かと比較して責任を負わねばかなって自問するときあると思います。

例えば、家庭環境がある一定の基準よりすごく複雑だったとしましょう。(暴力とかネグレクトとか。)それも自分の責任です!そういう親を選んでしまった自分がダメ!とかって追い詰める必要ないと思いますよ。

ま、いっか。となれるところに来るまでゆっくり浮上した方がいい人も多くいると思います。

もっとも、あまりにも誰かや何かのせいにしすぎるとそういう選択や景色が広がることにはなります。

ここも人それぞれにフィットしたバランスが大事ですね。

②罪悪感を持ちすぎているとき

責任を突き詰めてしまうと、いわゆるぼくらは罪と罰に行きがちです。

○○がイケない!とか○○のせいだからダメである。とかですね。そのいけないとかダメを自分に背負うことで、ある種の罪悪感から逃れらず八方塞がりになることもあるでしょう。

今の自分を把握することが何よりもキーポイントです。

③物理的に抗えないモノ

人生はあらゆることが起きるし、起きているので、生きていれば物理的にそれ、抗えないで。ということも出てくると思います。

例えば、大切な人を失くしたとして、 誰のせいでもないのに、 自分に責任があると、決めつけたり、自責の念を自分に押し付けたりする場合です。

誰のせいでも何かのせいでもないこと案外めちゃくちゃありませんかね。そんなとき、責任は神に背負ってもらうくらいがちょうど良いんだと思います。

責任は自分のポジション把握?

すべての事柄、物事に自分の義務や任務を押し付ける意味合いでの責任は正直必要ないとは思います。どうにもならないことはどうにもならないですからね。苦笑

あまりにも軸が他人やその他にぶれてしまっているとき、よっしゃ自分の人生やで!と自由意志としての責任をもつことはめちゃくちゃおすすめですね。

パキっとストレートでシンプルな自分に還れるツールになることもあるでしょう。

責任逃れしてもOK?
  • 生まれつきの環境
  • 罪悪感まみれ
  • 抗えない何か

責任をスピリチュアルっぽい学びに落とし込むなら・・

責任について、スピリチュアルっぽい観点からぼくらが学べそうなポイントを上げてみましょう。

①自分の人生を生きていますか?

責任についての一番のテーマはこれでしょう。

逃げることがダメとか、責任逃れは悪です。ということではもちろんありません。

あなたは、自分の意志で、自由に自分の選択に応えらることを忘れてませんか?と問われていることに気が付くところがポイントかもしれません。

②押し付けや決めつけがち?

①でほぼほぼ「学び」の大枠はクリアしているんですが、こじつけるのであればこれです。

ぼくらはイメージやラベルを貼りつけて、Aさんはダメな人である。と決めつける性質があります。

責任についてもおんなじで、○○のせいというシールをめっちゃ貼りたがります。そんなとき、よく思い出して欲しいかもしれないことが、決めつけへの命題ですかね。

いわゆるスピリチュアルジャッジメントってやつです。

③義務と責任の違い

義務と責任はぼくは違うと思います。

先ほどの船の例を挙げるのであれば、船をA→Bまで運ぶのに船員を守らなければいけないとするいわばルールが「義務」です。

一方で「責任」は、その舵右に行くの?左に取りたいの?という能動的選択です。

ぼくらはこの絶妙な違いに気が付いてもいいかもしれませんね。

自分で「責任」を使う

ぼくらは日々、パートナーとの生活、人間関係、家族、仕事、自分の属するコミュニティ、ネットなどなど、人と関わり合いをもっている人がほとんどです。

その関係が、義務の押し付け合いになっていたり、任務のなすりつけあいになっていたら、少し「責任」を能力としてみる視点をもってもいいかもしれません。

スピリチュアルっぽい観点からいえば、義務や任務は幻想で、もっといえば重くけだるいエネルギーなのかもしれません。

そこを応じる・レスポンス、自由意志の選択能力と再定義することで、あらゆる関係性が瓦解&再構築していくカギになることもあるでしょう。

まとめ:自分の人生に責任をとる=選択権を付与することに繋がるかも

人生に責任をとりなさい!そうすればあらゆることが自分軸になります!というのはド正論なのですが、その責任を履き違えて、義務にしないように留意するマインドもぼくは必要だと思います。

ぼくは今までの人生を振り返って、自分で決めたこと以外のモノやコトを知らないです。

そして、そんなぼくが妻と子どもと生活をともにして、感じるのは、あらゆることを選択できる能力はみんなもっているということです。

女性だから子育ての責任(義務)がある。とか、子どもだから親の言うことを聞く責任(義務)があるというのはすべて幻想です。これは文字通りすべてだとぼくは感じています。

みなさんは日々、能力としての責任を認識しているでしょうか?そして、そんな能力を誰かと色々な形でシェアしているでしょうか?

まあ、そんなに深く考えなくても、いい感じに廻っていくんでしょうけどね。

いつも読んでくださって本当にありがとうございます。

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