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スピリチュアルにおける愛と二元論の最大公約数

普遍的な愛ってどんな味がするかわからん。

まめたろう(僕)

ペドロ

神することがすべてです。

※この記事は、愛と二元論をテーマにおっさんがやんやする内容の記事になります。愛とか恋とか優しさの目に見えない部分って人それぞれ入り混じるモノや経験があってけっこうややこしいですよね。

誰かを好きになったり、誰かに愛を持つってぼくは結構エネルギーを必要とするイメージがありますね。求めたり求められたりする環境や状況が心地よく感じるときもあれば、それが億劫に感じることもしばしば・・・

ぼくらの感情におけるバランス感覚って、そこにコントロール不可能な何か(例えば自分のエゴとか思い込みとか)が入り込む余地がありまくりなので、しょっちゅうぼくらは悩んだり、立ち直ったりしちゃうわけですね。

なんとも面白い生き物です。みなさんは人を愛するってどんなイメージですか?

「愛」の正体ってなに?

Love&Divine

どうもペドロです。

今回はリアルで語ると割と恥ずかしい部類に入る愛をテーマにしたいと思います。結構偏った意見なんで合わないな~って思ったら『ふ~ん(ハナホジー)』程度で全然OKです!

一口に愛と言っても愛憎の愛もありますが、まずはスピリチュアルで言うところの『愛』から攻めてきます。

前者は異性・同性愛や親が子に対して抱くものを指していますが後者はもっと包括的な意味合いが出てきます。包括、と言うと包まれているものと包まれていないものが生まれてしまいますがホントを言うと全とかにしたいです。

僕のイメージをお伝えするなら、異性愛やらはLoveでスピリチュアルでの愛はDivine(神のような、神性)です。あくまで割合の話でLoveを排除するわけではないです。愛のみだとどうしても字面に引っ張られて混同してしまいがちですよね。

日本語で言うなら『神する(あいする)』う~んオサレ。

以下LとDと表記します。

Dは無条件でその状態を維持できますがLは相手に依存するケースが多いです。というか大体は相手ありきですよね。Dは全て分け隔てなく愛します。もしかしたら親の愛はDではないか、と思う方もいるかもしれません。

もしその親が他の子を我が子のように愛したならDかもしれません。

このLとD、似ているのは当たり前で、LはDのパワーダウンバージョン。そしてDはLの完成形といったところです。ではどうすれば完成するのか。LとHが別々でないとき、Dになるのではと思います。このHはHate、憎しみです。冒頭の愛憎ですね。

矛盾なき統合地点

愛の良いところって言わなくて大丈夫ですよね。

じゃあ聞こえはよくないですが、悪いところってなんだと思いますか。僕は人が人を愛するとき、まあまあ、とかそこそこって威力じゃないかなって思います。では次に憎しみの悪いところ……って言わなくてもいいですよね…。

別に良いところなんて無くね?って思われますが、こと威力に関して言えばぶっちぎりです。その持続性も目を見張るものがあります。あまり声を大きくして言えませんが一日中憎んでられますよね(笑)

愛の良いところ、憎しみの良いところ、これらを統合したものがDなのではないかということです。

つまり、憎しみの威力で強烈に愛する状態です。

その時何が起きているか。強烈に愛する(積極)と受容(消極)が起きているんですね。究極言えば超愛したときなんでも受け入れる状態なんだと思います。愛憎が矛盾せず、積極性と消極性が内在して均衡している。

例えばコーヒー(愛)とミルク(憎)を混ぜてコーヒー牛乳を作ったとします。これらは2つのものからなる1つのものです。

この矛盾無き統合がDivineです。統合された状態にあるにはやはり波動を上げる、幸福である、ワクワクするといったなんともほわっとした方法論になってしまいますが仕方ない。これしか思い付かないです。

多分なんですが元々全て統合されていたのが神だとか大いなる何かなんでしょうね。そして分離した状態、いわば二元論的なsomethingです。そうした次元にあるのが地球なんでしょう。

分かると分からないの意味も無理矢理結びつけるなら、『分かる』とは源(ソース、神)から別れて(分かれ)他と関係性が生まれ初めて自分を認識できたんじゃないかと思います。

眼球が眼球自身を見られないように、舌が舌自身の味が分からないように、それが『分からない(別けられていない)』なのかなと。ところでコーヒー牛乳って出来ちゃったら分けられなくね?

でもできる、そう、神さまならね

ここまでありがとうございました。

ペドロ。

本当の愛とは?二元的愛と非二元的愛の半分くらいで

雪印のコーヒー牛乳ってほぼほぼ砂糖ですよね。

まめたろう(僕)

LoveとDivineあたりを出してくるあたりに、変態っぷりを感じますが、ここからは、この愛的なところの統合を、ぼく、まめたろうが少しだけ掘り下げていきたい所存です。

まあ、そんなに難しく考える必要もなくて、もし感性がちょうどいい配合でマッチしていたら、異性・同性関係なくこの人なら「神せるわああ。」って次第になってくるんでしょうけどね。

そこに依存や利害関係、他人のあれやこれ。様々なやつらが入ってくるだけで実はシンプルなイメージがあります。

偏向的な愛情はガタがくるかも・・

これは人それぞれなところだとは思うんですが、

ペドロさんのいうLoveな状態のとき、相手が自分の思い通りに振舞ってくれたり、相手に何かを求めていて反応が期待通りだったら、けっこう満たされます。例えば、好きな人とカップルになった初期のころにしばしば感じるかもしれません。

ただ、ぼくらは人間ですので、このLoveが次第に大きくなりすぎて、色々なやつらが入り込んでくると、それはHateの要素が強くなります。

そしてHateの要素が強くなったら、たいていが弾けて、関係はプツンと音を立てて解消されます。その原因が依存だったり、一方通行の愛だったり、うわっついたときだったり。それは様々です。

期待しすぎず期待しなさすぎず、この微妙なバランス感覚の中で、一瞬だったり、瞬間的だったり、あるいは一時的にもぼくらはDivine的な愛をはぐくんでいる可能性が非常に高いんですけどね。

Divineの物足りなさ

このDivineってたとえばスピリチュアルな人が使いそうな「無条件な愛」っていうと、うさんくささが23倍増くらいにはなりますが、

この関係はこれでいいのだ!パーフェクトすぎるって感覚です。とても曖昧な感覚ですね。人によっては「ある種の物足りなさ。」なんていうのを感じるイメージもあります。

その曖昧な感覚に、栄光を感じすぎたり、悲観的になりすぎたりすると、ぼくらはまたまたある種の愛を見出します。

つまり、曖昧な「物足りなさ」の行く末は、I、ignore(無視や無関心)だったりするところに落ち着くんじゃないかと思っています。好きでもないし嫌いでもないし、いたら困らない程度の関係ってけっこう多いんじゃないかなと感じています。

人間って、けっこう不便さが表立っていますね(笑)バランスをとろうとしてもブロックやクセ、そのときの環境や状況が邪魔して、コントロールの余地がないですし。(笑)

愛はシンプルだけど・・

好き嫌いを抜けた場所、ペドロさんが言ってくれたところの、「超愛したときなんでも受け入れる状態」は実はとてもシンプルで、相手を尊敬したり、卑下したり、期待したり、そういう感覚がなくなって、自分と相手との境界線がなくなる、

またまた境界線の話になりますが、落ち着くところはそこになってしまいます。境界線がなくなると、非二元的なとか、無条件な愛。ってうさんくさいやつではなくて(言葉にするとまあ、そうなるんですが(笑))

互いにただ在るだけの神する状態が待ち受けているんではないでしょうか。

その状態が心地いい相手を探すのが、ぼくらが地球でパートナーを探す楽しみなところではあります。なので、その相手に巡り合うまでに、たくさんLove&Hate&Ignoreを繰り返しておくことをおすすめしておきます(笑)

そして、ここでいうパートナーというのは、実際に結婚する「運命の相手」とか恋人とかそういう文脈ではなく、異性であっても同性であってもそこを越えちゃうイメージをぼくは勝手にしています。

愛と憎しみと無関心の最大公約数的な神する状態にたどり着くには、ペドロさんが言うところの、波動を上げるなんてことも有効打突たり得ますが、ぼくは、相手に求めすぎず、求めなさすぎず、

相手と自分を限りなくイコールにしていくことも大切にはなってくるんではないかと思っています。

そこにたどり着かなければとか、そこにたどり着くには○○しなければならないなんてことはなく、ぼくのイメージでは一人一人にベストなタイミングでパーフェクトなパートナー(通称PP)がいることを意図しておきます。

ぜひ二人で腰に手をあてて砂糖たっぷりの瓶のコーヒー牛乳を飲んでみてください。

いつもありがとうございます!

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