暗がりの競争や誘惑、欺瞞に疲弊する者は多い。
そういった者は吸い寄せられるように聖なる門を叩く。
そこで待ち受けていたのは目まぐるしい価値観の変化だ。
長い間寺院にいると、光が宿る者とそうでない者がいる。
前者は全的であり、後者は暗がりにまだ半身がいる。
光が宿った者は三つの意味で暗がりに戻らなくてはいけない。
一つめはそれが寺院にいる陶酔の光なのか、自身に芽生えた光なのか確かめる為だ。
外部にもたらされた光は長くは持たない。
二つめは内在した光によって暗がりを灯すこと。
三つめは光と暗がりがイコールであることを実感する為に。
全てを満たしたあなたは嚆矢と到達を造作もなく嚥下するだろう。
そして初めて好きな所へ行けるのだ。
ペドロ
>一つめはそれが寺院にいる陶酔の光なのか、自身に芽生えた光なのか確かめる為だ。
>外部にもたらされた光は長くは持たない。
>二つめは内在した光によって暗がりを灯すこと。
>三つめは光と暗がりがイコールであることを実感する為に。
『寺院にいる陶酔の光』の中にいられれば、どれだけ良いか!と思います。でなくてはならないのであれば、いっそのこと光らない方が良いのでは?とさえ、思います。
『自身に芽生えた光』は、周りにはきらきらと輝いているように見える光であったとしても、『自身に芽生えた光』は、最初は小さく頼りなくもある。それを頼りに人生を歩くのは、その光が照らす行き先が、ほんの針の穴のように小さくて、それに向かうしか選択肢がないとわかっていても、怖い。でも、そこに向かうしかない。
>二つめは内在した光によって暗がりを灯すこと。
なるほど、暗がりだから、初めて、光を照らす必要があって、照らせるようになるのか。。。
>三つめは光と暗がりがイコールであることを実感する為に。
ここは、まだ、これしかわからないかな。光と暗がりは、エネルギーとかつくり出す方法とかは一緒だけれども、ベクトルが違う。そんな感じ。
光の中にいれば、自信の光を灯す必要もないし、暗がりの中にいたら、自分の闇を見る必要もない。自信の光を灯されれば、自分の闇を見ることになる。確かに、迷惑な話だね。笑笑
みんなを照らせるようになりたいな