今回のテーマは「自己受容」です。
受け入れるってなに?
※この記事は、「自己受容」をテーマにその定義、なんちゃって方法論をミクロな視点から提案する内容になります。
「自分を受け入れる」はスピリチュアルや心理学的なアプローチからも重要視されているテーマです。
ただ、その自己をどこまでが「自己」とするのか、そして「受容」の定義と範囲をどう決定づけるかが人それぞれ異なるとぼくは感じます。
自己受容する方法となると泥沼化します。
「偏り」がある自分にいるときって、視野がものすごく限定的なため、そこから自己受容をする方法を模索するってけっこうしんどいんですよね。
自己受容についてみなさんはどうしていますか?
今回の流れ
- 自己受容の定義
- 自己受容の方法
- 自己受容と自己肯定と自己否定の違い
- エゴとジャッジメント
- まとめ
自己受容できますか?
どうも、ペドロです。
お久しぶりです!以前はそこそこの頻度で寄稿させていただいていましたが、膝に矢を受けてしまってな…。
ということで今回は『自己受容』をテーマにします。最近のろばのせかいと毛色違くね?って思いましたが、大丈夫。拙者、投稿する前に受け入れ申した。
皆さんはすっぽりまるまる自分を受け入れられますか?
僕は無理です!というかそれが出来るならこの記事は読まんでええで。世間では自分を受け入れる際にありのままってのが前提で?ありますよね。確かに。合ってますね。
だって一部認めても絶対認めてない部分がちらつきますもんね。
でもこのありのままって難しくないですかね。なので、今回の肝は自己受容の入り口を変えてみる、ということですね。
自己受容とは?
自己受容の定義
まずは僕なりの自己受容の定義なんですが、たった一つだけです。
それは全てを受け入れているということ。
この主語無き受容が本当の自己受容だと思うんですよね。
自分を受け入れるのも難しいのに風呂敷広げるんじゃあないぜ!って思った方は落ち着いて下さい、説明します。
自己受容=主語なきオールOK
自己受容とは何か不満や受け入れられないことを潰していく作業ではありません。これはイイがあれはダメ等はマインドの管轄なんですね。
そうではなくて、オールオッケー状態。この状態があればなんでもいいんです。つまりわざわざ受け入れにくい自分を入り口にせずとも良いと思うんですよね。
じゃあ何きっかけかと言えばそれこそなんでもいいんです。ただ、精神的に荒れてたりすると難しいかもしれません。
もしかしたら一部の精神世界だと荒れててもオッケーとするでしょうけど、騒音の中でも眠れますよ、理論上はね!みたいな圧がありますよね。
キーポイントはリラックス?
やはりそれに適した環境はあるわけで。リラックスがキーになると思います。
ここで細かな条件を述べてしまうと理屈になってしまうのでもどかしいんですが、日常生活の中で完璧じゃね?って思う瞬間ありませんかね?
そういう瞬間は半無意識だと見逃しがちなんですが、そこに意識を割きマインドから離れていく…。
いやいやそんな瞬間すらねーわって人もいますわな。現に僕も350日くらいはそんな感じなんで分かります。
自己受容の方法論
思考のスキマ
冒頭ではありのままなんて無理という論調でしたが、それを逆手にとる手法を紹介します。先ほどのリラックスが関わってくるのですが、正確には『間』でしょうか。
今現在僕は肌荒れが酷いんです。顔なんかもブツブツですよ。でもあえて認める。心の中で唱えてみる。ブツブツでもええかってね。
そのありえなさに笑えてきます。
その、いわゆる笑いって『完璧じゃね?』エッセンスを豊富に含んでるって知ってましたか。
重要なのはありえなさポイント高めなとこを認めてみるのがいいですよ。
例えが色々思い浮かぶのですが、問題が起きそうなので止めときます笑。
人に言われたらムッとすることも自分で言えば軽傷です。なんだかんだ皆自分のこと好きなんじゃないかって思わされるメソッド、おすすめです。
ありがとうございました。
自己受容と自己肯定・自己否定の違い
ノージャッジメントっぽいやつです。
ここからはぼくまめたろうが少しだけ、「自己受容」について、輪郭をつけてみようと思います。
自己受容と肯定・否定の違い
自己受容と自己否定・自己肯定の違いは色々ありますが、端的にいうなら、
判断基準を設けているか否かです。いわゆる、マインドフルネスとかノージャッジメントの状態か否かです。
つまり、「自己」をポジティブに肯定するのにも、ネガティブに否定するのにも、その基準(や根拠)が必要です。
例えば、自信がない状態を、以前に比べて、誰かと比べて○○できるようにはなったからOKだ。なんてイメージです。
自己受容は、その「基準」を一旦横に置いて、受け入れちゃう状態です。
ペドロさんでいうところの主語なき受容とオールオーケーです。言葉にすると楽勝です。
自己受容と自己肯定(否定)の違い
自己受容
- 主語はない
- 基準や理由はない
自己肯定(否定)
- 主語は「わたし」
- 基準や理由あり
ありのまま受け入れるマインドフルネスとジャッジする生き方を比較してみた
自己受容=自己の範囲が和らいでいく過程?
自己受容の「自己」は、包括的ですが、自己肯定・否定の「自己」は限定的です。そこを少し説明してみます。
エゴと境界線
自己肯定も自己否定もやっていることはほぼ一緒で、要するに他と自。という境界線が明確になっている状態です。
いわゆる「エゴ」ってやつですね。エゴは別に良くも悪くもないんですが、終わりがないってところが「厄介」です。
例えば、肯定感を持とうとしても、その「肯定」を保ち続ける理由や根拠を探すことにエネルギー使うし、
反対に否定感をなくしたりするために強くあり続ける必要もありそうです。
良い点は、自分がわかることで、デメリットは競争にキリがないところです。まあ、それが心地いいときもたくさんあります。
受容と境界線
一方で、主語なき受容にシフトしちゃうと、他と自の境界線はあやふやさが増します。
いわゆる、マインドフルネスっぽくなれるチャンスです。
マインドフルネスも、それ自体は良くも悪くもないんですが、「完璧じゃん。」って笑いが増えます。(たぶん)
こういうときって気づいていないかもしれませんが、自分が自分で世界を象っている感覚が強くなる印象です。ぼくはそうですが。
そんな過程をものすごく乱暴に描いてみます。
境界線を引くことで、わたしはわたしなのであるというエゴが主張しがち。自分に対する必要以上の肯定や否定。高低がある
自分ってなに?あなたってなに?高低差のふり幅が狭くなりつつある。
シチュエーションや場面ごとに、わたしはわたし。あなたはあなたよね。という切り分けがうまくなる。
とりあえず、完璧だわ。が占める。「今」の意識が拡大するとき。
本当にざっくりですが、こんな感じです。
これ頭で理解していくと、もう入り口から、わたしはわたしなのである!!状態だったりするのでめちゃくちゃ限定的な見方になりますけどね。
自分の状態にゆとりがないとけっこう厳しめですよね。
まとめ:自己受容も「完璧」がわかるひとつのツールです
今回は、「自己受容」をわりとミクロな視点でペドロさんとみつめてみました。
「自分で自分を受け入れなきゃダメですよ。」ってフレーズは巷には溢れていますが、そんなことできないときもめちゃくちゃありますよ。人間ですから。
他人から認められることで、初めて自己受容の入り口の準備ができる人だっています。
いろんな角度から「自己」をみつめて、必要なものはアップデートして、不必要なものはアンインストールしていけばいいと思います。
結局、ぼくらはみんな神っぽいところから来てそこに還る過程をいろんな角度からやっているだけらしいので。
とりあえず、笑っておきましょう。
質問や意見はコメントまでお待ちしております。
いつも読んでくださって本当にありがとうございます。
最高にわかりやすいです٩( ᐛ )و
ありがとうございます(^^♪
今読んでいる本(ジェフフォスター)に「自己受容」の大切さが書かれていました。
タイムリーな内容で、なおかつ分かりやすかったです。
ありがとうございます♪